おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(41)ピアノの音色、感情の色

市役所への手続きはまとめて翌日行うことにした。
福祉課へは取り合えず母の国民健康保険証を持参すれば話を聞いてもらえるらしい。

夕方になり弔問客の足取りも一段落ついた頃、私は散らかった洋間を片づけそこにファンヒーターを運び入れた。そこには昔姉が弾いていたピアノがある。

ピアノはまだ習いたての娘。
完璧主義というよりは融通が利かない性格で一度間違えると最初からやり直す。すぐに嫌になって投げ出すものの出来るまで繰り返すというのは案外向いているのかもしれない。
段ボールの隙間に何とか小さな椅子を一つ置けるスペースを確保しそこに母を座らせる。
埃の被ったピアノの蓋を開け赤い鍵盤カバーを捲る。
覚えたての練習曲。既に両手で弾けるようになっている。

何年振りかに我が家にピアノの音色が響いた。
母にとっては初めて見る孫の演奏。
なのにやっぱり無表情で。瞳に精気が宿っていないという表現があるが、まさしくそれなのだ。
丸まった背中からはあらゆる感情の色が抜けてしまったように見えた。

鬱病であればそれは治る病気だ。
精神科に通い、何とかこの範囲ならやっていけるという生き方を見つけ社会復帰した人も知っている。
しかし万一認知症だとしたら…
そのときの私はたいした認知症の知識も持ち合わせていなかったが、進行を遅らせることは出来ても完治はできない病気であることくらいは知っていた。
私の知っている母はもう戻ってこないのだろうか。
父とは正反対の、明るく賑やかでお喋りな母。

それでも笑顔はまだ時折見せる。
この笑顔を守らなければならないのだ。
今はまだ父が死んだばかりで動揺もあるだろう。
だから一刻も早く、父のいない新しい日常を作ってあげるのだ。
私はそんなことを考えていた。

(40)うつと認知症

その日の私たちの計画はこうだった。
外は雨のため妻は娘の相手をしながら弔問客にお茶を出したり、食事の支度。
姉は戴いたお香典の精算と葬儀屋への支払い。代理の方から受け取ったため香典返しを渡せていない方のリストアップなど。
そして私は市役所への問い合わせ。介護保険証など返却すべきものは何か。葬祭費を受け取るために必要なものは。
これに福祉課への相談も追加すべきだ。
鬱病の母が独りになってしまった。こういった場合、家族としてできることは何か。

不確かなことなので姉には黙っていたが、私の頭ではこのとき既に「認知症」の三文字がよぎっていた。
鬱病はそう診断されたのなら確かなのだろう。
しかし母の様子は私の知る鬱病の症状と少し違う。

社会人になってから、私は鬱病を患ってしまった人を何人か見てきた。
そのどれもが男性だったし、私自身鬱病について本腰を入れて勉強したわけではないので感覚的なものだが、無気力、無表情は一つの特徴のようだ。
横になっていることが多く、お風呂も億劫だと言って数日おきにしか入らない。会話していても表情がこわばっている。
この辺り、確かに母はうつの症状が出ているようだ。

一方、行動に迷いがない、思いついたことはすぐ実行しないと気が済まないように見える辺りはどちらかと言うと躁なのではと思うし、なんと言っても認知機能の衰えは顕著だ。
姉が役所に提出する書類を記入する際、「ウチの本籍って何だっけ」と母に聞いた。母は住所をそのまま答えた。
「それは住所でしょ?」「うん、同じでいいの」というやり取り。
私はスマホにメモしてあったので正解がわかったが、実際、本籍は住所とは地番が違う。そのことを教えたが、ああそうかとたいして気にも留めた様子はない。

このやり取り一つを取ってみても、
・身の回りの情報がわからなくなる
・特に数字が弱い
・間違っているかもしれない、と立ち止まらない
・違うのでは?と問い質されても自信が揺るがない
・理論的な説明を加えず、そういうものだと断言する
・結果的に間違っていたとしても、反省する様子がない
といった特徴が見て取れ、これはこの数日間で幾度となく表れた。

鬱病の人はどこか自信がない、あるいは病気を自覚した人はそれを取り繕うように饒舌になる。
母はそのどれも当てはまらないように見えた。自信もあるし、取り繕いもしない。
私は福祉課に電話を入れ、母が鬱病であることと、もしかしたら痴呆、認知症であるかもしれない旨を伝えた。

(39)子ども扱い、大人扱い

三年前、度重なる心労を抱えた母であったが、それ以前から寝つきが悪く、心療内科から睡眠導入剤を処方されていたことは姉も知っていた。
その同じ心療内科鬱病と診断され、つい前の年まで抗うつ剤を服用していたのだという。
これに関して知っていたのは、叔母と父だけだ。
叔母は私や姉に知らせようかと思ったが、電話番号がわからない。母に聞こうとすれば何故必要なのかと怪しまれると思いできなかった。葬儀も終え、ようやく話すことができた。これからのこともあるが、まだしばらく地元にいるのならお母さんを交えて相談しましょう。
そう言い残して叔母は帰っていった。

ショックは私よりも姉の方が大きいようだった。
こんなとき私は比較的すぐに現実を受け入れることができる。父の訃報を聞いたときもそうだった。
そして頭は既に今後の対策について考えている。
過ぎたことに思考を巡らすのは後でよいと割り切ることができるのだ。
できる、というよりは過去を省みながら未来を考えられるほど器用ではないと言った方が正しい。
たくさんの失敗を重ねた上で身につけた処世術だ。

そして今。
両親には、もっと何でも話してくれてよかったんだよ、という思いもある。
いつまでも子ども扱いで、そんなに頼りなかったか?と。
しかしきっとそうではないのだろう。父も母も、自分たちが若い頃苦労している分、子どもたちもそれぞれの仕事や家庭で苦労しているはずだ、だから余計な心配はかけられない、という考えだったのだ。
この一年で母から繰り返し聞く昔話からそんな考えが見えてきた。

事実、両親から困っていることを聞かされたことはなかったが、反対に私自身の進路や仕事や家庭のことで口出し、干渉をされたこともほぼ皆無だ。
私は最初これを放任主義だと感じていたが、今は少し違う。
私たちは子ども扱いされていたのではなく、むしろ独立した大人としてやっていけ、こっちはこっちで何とかするから気にするなという意味で突き放されていたのだ。

その結果どうだとか言っても始まらない。それが両親の選んだ道なのだし、別の育てられ方をしていれば私もまた全く違う思考を身につけたであろうから。
今こう考えている自分こそが持っている全てだし、ここから始めるしかない。