おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(44)みんな、心にストレスを抱えている

母は父の死を受け入れられず、今が特別不安定な精神状態なのかもしれない。
それにしてもこのまま独りにさせるわけにはいかない。
気持ちが落ち着くまでは母の妹さんに一緒に泊まり込んでもらうようお願いしてみようか。
夜の十時を過ぎた頃、私は姉と今日あったことの情報交換と、明日以降の相談を重ねた。

「わたしも今日は眠れそうにない。睡眠薬飲むよ」と姉。
姉も一時期精神が不安定になり、睡眠導入剤に頼っていた時期があったのだという。暫く必要なかったのだが、一応御守り代わりに持ち歩いていた。今晩は何年か振りに必要だ、と言う。
「叔母さんもあんなに元気に見えるけど、兄ちゃん死んでから顔面神経痛があるんだって。右のほっぺがいつもこわばってるの気づいた?」
私たちが「兄ちゃん」と呼ぶのは叔母さんの息子さんのことで、私たちの従兄弟だ。
数年前にやはり精神を病み、アルコール中毒など色々なことがあった末に40代で命を落とした。
「そうか、叔母さんにも頼りっきりってわけにはいかないね」

程度の差異はあれど、一見健康に見えても、心に何かしらの問題を抱えている人は多い。
私もこれまで薬にこそ頼ることはなかったものの、人間関係で塞ぎ込み、息を止めるようにただその辛い日々が過ぎ去るのを待ったことがある。
ストレスを抱え込まない人などいない。

「でも母さんが鬱病ってのは今でも考えられないよ」
私の言葉に姉はしばらく考え込み、こう返した。
「あんたが小学生のとき、母さん10キロも痩せたんだよ」

(43)テレビの音量が最大レベルに近い

もう寝るから、と寝室に上がった母。
しばらくしてそこからテレビの音が聞こえてくる。
しかも階下まで響くような大音量だ。

心配になり私は階段を上る。
「入るよ」「うん」
襖を開けると母は布団に横たわりバラエティ番組を見ている。
「ちょっとテレビの音大きいんじゃない?」「そう?」
といってボリュームを下げる様子もない。
横にはまだ父の布団が並べて敷かれたままだった。
私はリモコンを手に取りボリュームを下げる。それは最大レベルに近かった。
「これくらいだと聴こえない?」「聴こえる」「そう。あんな大きいと近所迷惑だよ」「わかった」

さっきまであんなに饒舌に話していた母が、また昼間のように戻ってしまった。
打っても響かないというか、普通だったらこのような会話の中で「何故音量が大きかったのか」を説明する場面だ。
実際、母は耳は遠くないので恐らく寂しさを紛らすためだったのだと思う。
母の性格からして私にそんなことは言わないかもしれないが、せめて「聴こえづらかった」とか「間違えて大きくしすぎた」とか取り繕ってもよさそうなところだが、それもしない。

朝の蝋燭の火の件もそうだが、自分にとって都合の悪いこと、触れてほしくないことは受け流すのだ。
何も問題はない、と言わんばかりに。
また関心事が欲求の対象(今でいえばテレビ)にしかないため、近所の人がどう思うかとか、音を下げるように言った私の気持ちを汲もうとはしない。

「おやすみ」と私が部屋を出ていきしばらくして、再び大音量が戻ってきた。

(42)父の闘病

皆で夕食を終え、妻は娘の寝かしつけに寝室へ、姉はお風呂へ。
私と母は居間で二人きりになり、お互いの近況やら昔話やらの会話を交わす。
父の生前も、父はいち早く寝室に向かうため、これは私が帰省した際の恒例の儀式のようなものとして自然とそうなる。

さっきまで私の年齢を10歳も多く間違えていた母。
しかしここでの会話は今までと変わらない、記憶力の確かな母だった。

父の思い出。
元々肺炎の家系で両親もそれで早くに亡くしている。
同じく父も若くして肺炎を患い、大きな手術を施した。
私も、父の背中の肋骨に沿って大きな手術痕が残っていたのを今でもよく覚えている。
その手術の際の輸血で、C型肝炎に感染した。
慢性の肝炎は自覚症状はないらしく、発覚した頃にはかなり進行していたという。
インターフェロンによる投薬治療を始めた父。
姉が数年経ってから聞かされた話によると、毎回船酔いする程苦しかったのだそうだ。

しかしそれもやがて肝がんへと進行し、18年前に手術。
万一の事態に備え私も病院に呼ばれた。
ところがそのとき私は、癌であることは教えられていなかった。
ここでも両親特有の、極力子どもに心配かけまいとする姿勢がある。

手術は成功した。
麻酔から醒めたとき真っ先に私の顔が目に入り、父は「生きている」としみじみ思ったのだと母は言う。
ところがそこから15年後、癌が再発した。
父は母に、病症は全て把握しておきたいから隠さないでくれということ、寝たきりになるようなことがあれば延命措置はして欲しくないことを伝えたのだという。

今度の手術はラジオ波を用いて癌細胞を焼くというものだった。
これにより完治するかは主治医としても難しいだろうという見解だったが、術後の経過を見るに、完治したといってよいレベルにまで快復したのだと言う。
それは主治医にとっても自慢だった。
それなのに別の理由で命を落とすなんて。先生もきっと残念がるだろう。
最後の晩御飯は大好きな魚。ぶりの刺身とぶりの塩焼きだった。

悲嘆に暮れるといった様子はなく、淡々と、そしてしっかりと、母は話した。