おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(48)デパスと副作用

母が処方されていた薬はデパス
私はこのとき初めてその存在を知ったのだが、姉は自分が以前頼った薬も同じであったため知っていた。
その手の問題を抱える人たちにもお馴染みの薬であるらしい。
神経を落ち着かせる作用があるとのことで、母の不眠がやはり心の病気からくるものだと診断されたのだろう。
睡眠導入剤としての効果は弱いらしく、母は前の月の中頃、指定の用量の倍を服用し、医師からも注意を受けた。
しかしそれもなくなると友人から、やはりデパスを譲り受け飲んでいたのだという。

私はこのことを姉から聞くのだが、当時の母はこの自分にとってかなり都合の悪い事実を自ら白状したことになる。
今となっては考えられないが、一年以上前はまだそんな所もあったのかと改めて考えさせられる。
あるいは薬を飲み過ぎることに対し、罪悪感や後ろめたさといったものが希薄だったのかもしれない。

いずれにせよこの類いの薬が副作用をもたらさない訳がないことくらいは私にもわかった。
調べると、依存性が高く足腰のふらつき、倦怠感が出るとのこと。
まさに今の状態だ。
そしてもう一つ、健忘、認知症を発症しやすくなるという報告もある。

精神不安定、不眠、ふらつき、倦怠、薬物依存、健忘、認知機能の低下…
もはやどの症状が先でどの症状を引き起こしたのかはわからない。
ただ一つ言えることは、母にしてみてば、兄、夫、そして自分自身の病気が最悪のタイミングで重なってしまったということだ。
そしてそれらの症状が合わさり高まっているタイミングで父が死んでしまったのだ。
あまり使いたくない言葉だが、なんと残酷な運命なんだろうと思う。

私と姉がやるべきことは山ほどあるが、まずは薬の管理は本人以外にさせるべきだ。
私たちがいる間はいいが、その後どうするか。
家事や灯油汲みのことも考えれば、もはやホームヘルパーという選択肢しかないという結論に至った。

(47)問題が渋滞している

父の告別式から二日目。
母を取り巻く状況は更に深刻であることに気づかされる。
三年前にヘルニアの手術をしてから、母はしきりに足がふらつくのだと口にしていた。
そのため外科へリハビリに通っていたのだが、病院まではやや距離があり、父の運転する車で通院していた。
その父が死に移動手段が無くなったのだ。
本人はバスに乗るから大丈夫だと言うのだが、ただでさえ乗り慣れていないのに、今の母の様子で果たして一人で乗り降りができるのだろうか。

更に新事実。
前の年に階段を降りていた際に足を滑らせ五段目から転落。手首の骨を折ったのだと言う。
外科のリハビリは手首の怪我の分も兼ねている。
骨折自体は軽度で済んだが、足腰が弱っていることの裏付けだ。

ここ数日は日中横になっていることが多いが、どうやらそれは父の生前からのことのようだ。
足腰が弱り、買い物や米研ぎなどの食事の支度、掃除は父に頼りきりだったらしい。
しかし不思議なことに食器洗いと洗濯干しは自分でできる。洗濯物を干すためにはそれを二階まで運ばねばならないのだからそこそこ大変なはずである。
もしかすると足腰だけの問題ではないかもしれない。どうやら気が向く家事とそうでない家事があるようだ。

そしてこれからの季節、北陸の冬、特に我が家のような隙間だらけの木造家屋は灯油ストーブが欠かせない。
トーブの数は居間、台所、寝室の三ヶ所。この灯油をポリタンクから給油する作業もまた父の仕事だった。
これも母は自分でできると言うが万が一こぼし、それを放置するようなことがあれば極めて危険だ。

そして畳み掛けるように悩ましい問題。
心療内科から処方されている睡眠導入剤
どうもこれを眠れないからと指定の用量以上に服用しているようなのだ。

(46)ドラマ性を排除した我が家

子どもの頃からずっと、私は父と母の弱いところを見てこなかった。
それは二人が強かった訳ではなく、弱いところを見せなかっただけなのだ。
私はそれを知らず、大人が弱音を吐いたり感情を顕にしたりするのはドラマだけの世界だと思っていた。

ドラマ性の排除。
これが我が家の一風変わった特徴かもしれない。
それは苦しみや悲しみや怒りだけじゃない。
祝い事の一切も、私たちがある程度大きくなった時点で無くなった。
あるいは小さいころ私がテストでいい点を取って誇らしげに見せても、殊更大袈裟に褒めはしない。逆に第一志望校に落ちたようなときも特段慰めるようなこともない。
波風の立たない日常に敢えて非日常的な所作や儀式を持ち込むことが極端になかったのだ。

それだけが理由ではないが、鬱病認知症、介護といった劇的なあれこれは何となく私にとって遠い存在で、だから身近に入り込んできて初めてうろたえたのだ。
これまでがある意味幸せ者だったと言える。

明日も忙しい。
姉との会話に区切りをつけ、二階に上がる。
先に娘と寝ていた妻が目を覚ましたのであらましを話す。
介護の手続きも必要になったと言うと、初七日が過ぎるまで滞在を延期してくれると言う。冬休みも明けるが娘は幼稚園を忌引きで休ませることにした。

まだ先だと思ってた介護が眼前に迫ってきた。
苦労をかけるかもしれない。
ただ、この何も知らずにスヤスヤと眠る娘の寝顔が一筋の希望の光に思える。

23時を過ぎていたが母の部屋からはまだテレビ音が漏れ聞こえてくる。
治まってくれ、治まってくれと心で唱えながら私は布団に潜った。