おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(81)思想と表現の違い

前回までで私が日記をつける理由はほぼ書いたのだが、補足でどうしてもこれだけは書いておきたい。

気持ちを吐き出す文章は、個人が特定されない範囲であればプライベートな日記でなくともブログやSNSでもいいのではないかと言う人もいるだろう。
または友人に愚痴を聞いてもらうでもいいのではないかと。
その方が共感も得られるし承認欲求も満たせるかもしれない。
実際それで均衡を保てている人も多いだろう。

ただし、前回私が書いた「誰にも見せることのない日記」と「他者に公開すること」の間には決定的な違いがある。
何かと言うと、自分の中にのみ留める内は「思想」であるが、他者に見せたり話したりした瞬間それは「表現」になるということだ。
近頃ネットで「思想の自由」と「表現の自由」を混同した論調を見かけたのでどうしても書いておきたかった。

両者はそれぞれ守られるべき自由ではあるが、別問題だ。憲法でも明確に区別されている。
表現は多かれ少なかれそれに接した相手に影響を及ぼす。
それにより相手を傷つけるのではないか、あるいは公共の場に発した場合は社会にどのような影響を及ぼすかは、やはり考慮した方がいい。
私もこのブログで多少の愚痴は溢すこともあるが、この点は気をつけている。
頭の中で考えることと、人目に触れる場に公開することは異なる意味合いを持つということは忘れないようにしている。
名誉毀損ヘイトスピーチ、差別発言、犯罪予告は論外として。
すれすれの表現や過激な発言は、基本的に自由だが「読む人、聞く人のことを考えた方がいい」、限度ってものがあるでしょうよというのが私の考えだ。

こう書くと「その限度はどこで線引きするんだ」と言われそうだ。
そのラインはケースごと違うだろうし、時代によっても違う。
10年前までなんの問題なかった表現が、今はちょっとどうなんだろうと首を傾げるのは当然のことだと思う。

念のため書いておくと、法規制を強化すべきという考えではない。そんなことをしなくてもいいようにみんなが総体的に生きやすい社会にしようよと言いたいだけだ。
また清廉潔白でなくてはならないとか、聖人君子になるべきとも、微塵とも思わない。
むしろ社会は人間の弱さ、脆さを前提に成り立つべきだと思っている。
一方で人を憎んだり妬んだりすることのない純朴な人も間違いなく存在するし、その人たちが生きやすい社会こそが本来理想なのだ。

しかし私はそうではないのだし、そうなるには遅すぎる。
俗人であることの自覚を持って、その中で遣り繰りするのだ。
醜い心は心に留め、内側で処理して外には漏らさない。
そのために、誰にも見せない日記を書くのだ。

(80)気持ちに折り合いをつける

自分の頭の中だけは誰にも侵害されることのない、際限なく自由な領域だ。
上手くいかないことばかりの毎日で、今の自分ではどう抗っても解決できない難問の前で、ただそこだけは最後の砦だと思っている。
「どうしてこんな辛い思いをしなければならないんだ」
そんな理不尽にぶち当たったら、けして誰にも見せることのない日記に全て吐き出せばいいのだと気がついた。

私は頭の中を開放することで心が楽になると考える。
心理学のことなどまるでわからないが、きっとそんな療法もあるのではないだろうか。
逆に頭の中でまで自分を偽り常識や道徳心に縛られているとそれがストレスとなり心を蝕むのではないかという気がしている。

全て吐き出し、時には激しい言葉も書いたりして鬱憤を晴らすことで思いは昇華され、気持ちをイーブンに持ち込むことができる。折り合いがつけられる。
制約だらけの現実世界で、せめて思考くらいは果てしなく自由でありたい。
どんなに吐き出したところで誰に迷惑をかけるわけでもないので、目を背けたくなるような現実も直視できる。
困難から逃げるのではなく、いっそ取り込んでしまえばいいのだ。
思いが言葉になるとき、黒くて凝り固まったわだかまりが解れていく。
これは記憶を整理するために夢を見るという言説に似ている。
夢の中はとても他人には見せられないように、私の日記はたとえ妻であっても見せることは憚れるほど自由に書いている。

そして辛い出来事も活字に起こすことでどこかしら客観的に見えてくる。
これは「書こうと思った時の自分」とそれを「読み返した時の自分」に時差があるからだ。
私はこれを仕事で問い合わせのメールを書いていて気がついた。
いくら頭で考えてもわからないので質問文を書く。
文章にするからには相手に伝わるよう順序立てて論理的に説明しなければならない。
すると頭の中は自ずと冷静になり、自分の説明文に矛盾があることに気づく。
そこを正して行けば自然と答えが導き出せたのだ。

客観的な角度から見ることでその困難は、雨が降ったとか寒くなったとかいった気候のように事象化されていく。
日記として時系列に取り込むことであらゆる困難は突発的な災いではなく、因果関係を持ったシナリオとして整理されていく。対策はなくともそこには原因があることが分かってくる。
私は死や病や介護も自然現象のように捉えようとしている。

(79)日記の効果

日記は元々つける習慣はなかったのだが、2004年頃のブログ黎明期、日々の出来事を公開している人たちを見ていいものだなと思った。
行った場所、会った人、食べたもの、観た映画、聴いた音楽、読んだ小説。
これらは活字に残すことで記憶に残り糧となる。
また、何てことのない日常にも意味を持たせることができる。
毎日を大切にできる気がした。

私も真似事をしてみるのだが、上手くいかない。
ネットに公開するとなると個人を特定できるような内容は書けないし、どうしても無難な内容にまとまってしまう。
次にプライベートモードで書いてみるのだが、やはり個人情報をネットに預けることに抵抗がある。
かといって手書きの手帳では電車の中などでは開きづらいし、修正が面倒、検索ができないといったデメリットもある。

こうして何度も挫折する内、やがてスマホを持つようになった。
その頃、娘が生まれる。
写真や動画はスマホで撮れるが、些細な仕草やそのとき自分が考えていたことまでは残せない。
日記欲が再燃する。
しかし当時は仕事でどうしても相容れない相手と毎日接しなければならず、精神的余裕がなかった。
毎日俯くように歩いていた。
そんな中、東日本大震災があった。
命の尊さや儚さといったことはもちろん感じたが、日々刻々と変化する被災地の状況、原発事故の成り行きを追うのが大変だったこともある。
事実は瞬く間に置き去りになってしまう。
忙しいからこそ、精神的余裕がないからこそ、記録をつけなければならないと思った。

その頃「瞬間日記」というアプリを見つけた。
これならばネットに預けることなく端末内に保存できるし、操作も楽だ。
また、これに関しては一日分の字数制限があることがかえってよかった。
字数制限があることで、ちょっとした時間で書き終えることができ、これならば持続できるという自信もつく。

これにより初めて日記を習慣づけることに成功した。
2011年の春から現在まで、毎日欠かさず続けられていて、今ではルーチンと化している。
タイミングは帰りの電車内。
その瞬間、最も頭に引っ掛かっていることを書き出すのだ。
当然嫌だったこと、上手くいかなかったことが真っ先に思い浮かぶこともある。
だがそれも偽ることなく書くようにしている。

日記の効果はもちろん後から振り返った時にこんなことがあったと思い返せる点は大きい。
例えば梅雨時は案外体調を壊しやすいから気をつけようといった統計と学習の効果もある。
たとえ一日一行であっても、10代の内からつけておけばどれだけよかったことかと思う。
しかしもう一つ。
私は日記を続ける過程で副次的な作用を発見する。
それは、気持ちに折り合いをつけられるという効果だ。