おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(10)この経験は無駄ではない

永遠に続くと思われる介護も長い人生のあるひと時だ。
そしてそれが気休めであろうとも、意味を持たせたい。

認知症介護は一般的にイメージする老介護の一段階上を行く。
介護する者は本来予定していなかったお金や時間や精神力といったリソースを多く費やす。介護される者も想定していた老後の姿を大きく逸したことであろう。
運命のハズレくじを引いたなどと呪詛を吐きたくなることもあるが、やはりどこかで今の時間を意味のあるものと認めなければやりきれない。

今回の母の件では様々な関係者に会い事情を伝えた。子どもの頃から毎日通っていたような道すがら、一度も言葉を交わしたことのない方のお宅を訪問したりもした。そこで父母にまつわる昔の話を聴いた。
家電店を営んでいた父。他所で買った洗濯機だが故障して直ぐに直して欲しいと頼んだら快く引き受けてくれた。それ以来贔屓にさせてもらった…。
このような話も母の認知症がなければ聴くこともなかっただろう。
姉や叔母との関係性も深まった。
同じ困難を共有しているのだ。
母の認知症以前とは比べ物にならない。

無駄なことなんて一つもない。
そして現在進行形で培っている経験はこの先の、どこかの誰かに訪れる将来でもあるのだ。母の認知症を通して、多くの社会制度の問題点や介護の妨げとなる悪習が見えてきた。
私にできるきとはこれら一つ一つの課題を明らかにしたり、共倒れにならないよう気持ちを切り替える方法を共有したりといったことだ。

認知症という病気が私に経験を与え行動を起こさせる。
だから無駄ではない。無駄にはしたくない。