おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(13)正常性バイアス

習慣は身につけばつくほど変化に気づくことが出来なくなる。
お年寄りが冬場に餅を喉に詰まらせたり、雪降ろしの際に屋根から落下して怪我をしたりといった事故もみな慣れから来る過信によるものだ。
確かに一年前は大丈夫だったのだ。
しかし春夏秋とブランクが空き、その間に身体は確実に衰えている。
ところが頭の中は長年無難にこなしてきたイメージしかないものだから、身体が気持ちに追いつかないといったことになる。

加えて「ボケ老人」などという言葉も本人の自覚から遠ざける。本来脳の病気である患者を「一風変わった人」くらいの存在として揶揄するポップな言葉として定着してまっているからだ。人は気軽に「ボケ老人」と口にするとき、そこにうっかりエピソードを添えほのぼのとした笑い話として消化する。そしてその「ボケ老人」のカテゴリに自分が含まれることなど考えもしない。
「いつかボケたらよろしくね」
などと自虐を込めた会話ならあるかもしれないが、そこに金銭面や精神面といった切実さが含まれることは少ない。

健常である限り、健康な自分自身のイメージが保たれている限り、そうでなくなった場面が具体的に想像できない。あるいは想像もしたくないという表現が正しいのかもしれない。
これを心理学用語で「正常性バイアス」というらしい。

東日本大震災以前によく聞いた言葉で、こんなのがあった。
「どうせ大地震が来たら死んじゃうから」
あるいは禁煙に踏み切れない人はこう言う。
「好きなものを我慢して死ぬよりマシ」

みな自分だけはポックリ死ねると思っている。
しかし現実はどうか。
家を無くしても「運よく」命は残ることもある。長い避難生活を余儀なくされる。住宅ローンだって残る。
ヘビースモーカーは肺癌に苦しみ、高額な治療費や家族に介護負担がのしかかる。
それでも現実は細く長く、続くのだ。