おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(36)寺との関わり、肌感覚の違い

私や姉がお布施に対して疑問を持ったのは、そもそもお布施という習わしの本質を肌感覚で理解していないからであろう。
お布施は葬儀屋に支払うサービス料とは違う。
かといって税金のように納める義務があるものでもない。
お経を読んでいただき、戒名をつけていただいたお礼の「気持ち」を表すものなのだ。
だから叔母にしてみると開基檀家としてはその他の檀家さんと同じ「気持ち」なはずがない、という訳だ。

ただ叔母にしてみても、闇雲に高額を包むようにと言ってきたわけではない。
以前同じ寺で葬儀を上げた際に、住職にそれとなしに尋ねたのだそうだ。
初めての葬儀なのだがお幾らくらい包んだものか見当もつかない、と。明確な決まりなどないものだから、どう答えるかと探ったのだったが、だいたいこれくらいですかね、と教えてくれたのだという。
叔母はそのときの額をメモで残しておいたのだ。
この辺り、風習や体面に重きを置いた叔母であったが、合理性を欠いたわけではない。私たちの両親にはない一面だ。

だがそれにしても叔母が提示してきた額はその聞き出した相場に対しかなり上乗せしたものだった。
私たちとて礼儀を通したいという気持ちは当然あるが、これは生活に直結するお金の問題だ。
第一我が家はけして裕福な家庭などではない。いくら父の遺した貯金から捻出できない額ではないとはいえ、父が亡くなったことでこの先年金もかなり減る。切り詰めてやっていくしかないのだ。(実際、この後母の問題で貯蓄は予想を遥かに上回るペースで減っていく)
そんな事情があったとしても体面は優先すべきことなのか。
叔母たちからすると、お布施は節約や費用対効果とかいった対象にはなり得ない、ということになるのだろう。
会社勤めの長い私たちにはなかなか理解に苦しむ感覚だ。
我々以降の世代における寺や宗教との関わり方については、また改めてゆっくり書きたい。

ともあれ仮に父が遺言を遺したとしても、同じ額を包むようにと言ったであろうことは間違いない。
私自身、喪主の挨拶で「家を守れというのが唯一の遺言でした」と述べたばかりだ。
開基檀家としての体面を守ることは家を守ることになるだろう。

腑には落ちないが、今回ばかりは従うしかなさそうだ。
叔母の言い値通りを包み、私は母を伴って祠堂詣りを終えたのだった。