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おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(39)子ども扱い、大人扱い

三年前、度重なる心労を抱えた母であったが、それ以前から寝つきが悪く、心療内科から睡眠導入剤を処方されていたことは姉も知っていた。
その同じ心療内科鬱病と診断され、つい前の年まで抗うつ剤を服用していたのだという。
これに関して知っていたのは、叔母と父だけだ。
叔母は私や姉に知らせようかと思ったが、電話番号がわからない。母に聞こうとすれば何故必要なのかと怪しまれると思いできなかった。葬儀も終え、ようやく話すことができた。これからのこともあるが、まだしばらく地元にいるのならお母さんを交えて相談しましょう。
そう言い残して叔母は帰っていった。

ショックは私よりも姉の方が大きいようだった。
こんなとき私は比較的すぐに現実を受け入れることができる。父の訃報を聞いたときもそうだった。
そして頭は既に今後の対策について考えている。
過ぎたことに思考を巡らすのは後でよいと割り切ることができるのだ。
できる、というよりは過去を省みながら未来を考えられるほど器用ではないと言った方が正しい。
たくさんの失敗を重ねた上で身につけた処世術だ。

そして今。
両親には、もっと何でも話してくれてよかったんだよ、という思いもある。
いつまでも子ども扱いで、そんなに頼りなかったか?と。
しかしきっとそうではないのだろう。父も母も、自分たちが若い頃苦労している分、子どもたちもそれぞれの仕事や家庭で苦労しているはずだ、だから余計な心配はかけられない、という考えだったのだ。
この一年で母から繰り返し聞く昔話からそんな考えが見えてきた。

事実、両親から困っていることを聞かされたことはなかったが、反対に私自身の進路や仕事や家庭のことで口出し、干渉をされたこともほぼ皆無だ。
私は最初これを放任主義だと感じていたが、今は少し違う。
私たちは子ども扱いされていたのではなく、むしろ独立した大人としてやっていけ、こっちはこっちで何とかするから気にするなという意味で突き放されていたのだ。

その結果どうだとか言っても始まらない。それが両親の選んだ道なのだし、別の育てられ方をしていれば私もまた全く違う思考を身につけたであろうから。
今こう考えている自分こそが持っている全てだし、ここから始めるしかない。