おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(57)初七日の朝

初七日を迎えた朝もまた慌ただしい。
仏花やお供えの支度をしつつ、木魚やおりんといった仏具を並べるのだが正しい配置がわからない。
こういう時はスマホが役立つ。
「何でもそれでわかるんだねえ」と母はしきりに感心する。

約束の時間より少し早く住職が到着した。
私は住職が木箱から取り出した掛軸を受け取ると、竿を用いて鴨居に掛ける。
仏が描かれた掛軸で、四十九日が終わるまではお借りして祭壇の背後に飾っておくのだ。

父の仏前、お経が読まれる。
娘は後ろの方で幼児向け雑誌を読ませていたが、最後まで大人しくしていた。
この数日間ですっかりお経を聞き慣れて、自ら木魚を叩いてはお経の真似事をするようにまでなっていた。

読経が終わり住職にお茶を出す。
「先日は永代経をたくさんいただき…」とお布施のお礼を述べられる。
ということは開基檀家としての名目は充分に果たせたのだな。であれば今後は少しくらい融通を利かせてもらっていいだろう。
そんなことを考えつつ、お墓の修繕と四十九日の相談を切り出す。
母の手前、介護手続きが必要になったので、とは言わないが、今から急いでお墓を直したとしても本来の四十九日の日取りである二月に間に合わせるのは厳しそうであることを話す。
すると住職は暖かくなってからでいいですよ、とのこと。
一つ、問題を先送りにできたことで少し安堵する。

話もそこそこに住職が帰られるので私がお見送りに着いていく。
玄関を出たところでもう一つの相談。
父の死によるショックのためか、母に動揺が見られる。火の扱いが心配なので七日ごとの法要以外は蝋燭を灯さなくてもよいでしょうか、と。
住職の回答は「それは構いませんよ。火事になってしまってはいけませんからね」とのことだった。

本音を書くならば、ここまでは私の想定通りだ。
私はこのとき、その先の言葉を待っていたのだ。
大切な人を亡くした母がこの先どういう心持ちで過ごしたらよいのか。仏教に携わる身としてのアドバイスを欲していたのだ。
しかしそのような助言はなく、車で帰っていくのをただ見送ることしかできなかった。