おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(68)バスの乗り降りも覚束ない

雪道を考慮し余裕を持って家を出たためバス停には早目に到着する。
前の日に私は市が発行する高齢者用の半年間有効フリーパスを購入し、それをパスケースに入れて母に渡してあった。
バスの営業所にも赴き、そこで路線図と時刻表も入手していた。

営業所の駐車場には運行前のバスを整備している運転手が一人。
時刻表を貰いたいのだがと話しかけると、たった一人の所員しかいない、それにしては広すぎる事務所に通される。
達磨ストーブ、使い古したデスクやスチール製のロッカー、今も現役で使われている黒板。
昭和で時間が止まったようなその空間は趣があった。

最寄りのバス停から病院まではバスで片道10分もかからない。しかし系統は二種類ほどあるため行き先表示には気をつけなければいけない。
私は病院から指定されることの多い時間に合わせて乗るべきバスが分かるよう時刻表に蛍光ペンを引き台所の壁に張っておいた。
行き先さえ間違えなく乗れば「次は○○五丁目」という車内アナウンスの後で降車ボタンを押し、フリーパスを運転手に見せて降りるだけだ。
事前に母にそう説明すると、何てことはない、一人でできると言う。
しかし今日は初日だし、お世話になっている先生にも挨拶がしたいからと言って着いてきたのだ。

定刻通りにバスが到着し乗り込む。
車内は充分にすいている。
母はもう何年も路線バスなど乗っていないはずだ。
「一人で降車ボタン押してみて」と言い残し私は母のすぐ後ろの座席に座り様子を見守る。

乗車時間は短い。
「次は○○五丁目」
アナウンスがあるが母は動かない。
「母さん、次だよ」
後ろから声をかけると反応するのだが、今度は降車ボタンがどれだか分からない。
「これ」と指し示すと、まごつきながらようやくボタンが押される。
降りる際のフリーパスは見せることが出来た。

後ろから見守っていた限り、乗車中は終始そのフリーパスを握りしめていた。
つまり母はこのパスを見せることだけに集中し、降車ボタンのことが頭から消え去ったのではないか。
この数日間で幾度となく目にした、一つの関心事以外に注意を払えなくなる現象だ。
やはり今から新しいことを覚えるのは難しそうだ。
しかし一人で乗ってもらうようにならなければ、またお友だちの車をあてにしてしまうだろう。
こればかりは練習で慣れてもらうしかなさそうだ。