おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(71)老後の蓄え

雪は午前中で止んだ。
六日間の滞在を終え、妻と娘が先に帰るため私は駅まで見送る。
途中だだっ広い駐車場にまだ足跡もないふかふかな雪が積もっていたのを見つけ、娘が遊んでいいかと聞く。
いいよと言うと喜んで駆け出した。

私も笑顔になりたいが今はできない。
母は帰りのバスでもやはり降車ボタンを押すことができなかったのだ。
認知症の可能性。10年、20年とかかるかもしれない介護が見えてきた。
今年はDIYを趣味にしようと思って、ホームセンターでペンキや刷毛など一式を買い揃えたけど、そんな余裕はなさそうだな。
だけど娘は育ち盛りだ。
父親と公園を走り回ったり一緒にお絵描きや工作をしたり。それらは今しか出来ないことなのだ。
これだけは続けよう。

この六日間、妻には家事の一切を任せきりだったし、奔放な娘は場を明るくしてくれた。ありがとう。
二人が改札を抜けるのを見届けると、踵を返して家に戻る。
後で聞くとホームからその私の後ろ姿が見えたという。
自分の後ろ姿など普段意識することもないが、雪道を力なく物思いに耽りながら項垂れトボトボと歩く己の姿が思い浮かぶ。

この日、葬儀屋への支払いを済ませる。
思いの外、多くの方に弔問に来ていただきそのお香典で全て賄うことができた。葬儀屋に対し毎月掛け金を支払う互助会の仕組みも役立った。
掛け金はまだ母の分が僅かに残っていたため、お香典の残りで全て支払い完了とする。

しかし今回弔問に来ていただいた方の大半は高齢者である。
不謹慎な言い方になってしまうが、その方たちが亡くなれば今度はこちらが香典をお出しする番だ。
トータルで考えればやはり葬儀代は生前よりお香典とは別にして計算しておかなければならない。
それに加えてお布施、お墓。
現役時代に蓄えるべきお金は老後の生活資金に留まらず、死後に出ていくお金もまた然りだ。
そして介護費用。
実際我が家は介護制度の範囲なら問題なかったのだが、この先、金銭感覚を無くした母の浪費に悩まされることになる。

ニュースでは度々高齢者の貯蓄が経済を停滞させているような話題が上る。
日本全体ではそれは正しいのかもしれないが、今の我が家に限って言えば「貯蓄は幾らあっても足りない」だ。