おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(76)認知症は人としての尊厳を脅かす

いよいよ私も実家に留まることのできる最終日。
家中の灯油を注いで回ったり、古新聞を縛って纏めたりといった力仕事を中心にこなす。
この十日間の様子を見るに、灯油ポリタンク一つはおよそ五日間でなくなる。
一ヶ月では大体6タンクの消費だ。
なくなれば電話一本で配達してもらえるのだ。
エアコンの方が安いのではないかと思うが、隙間だらけの木造家屋である我が家はファンヒーターの方がすぐに暖まるのだと母は言う。
私としても消し忘れのことを考えればファンヒーターであれば時間が経つと自動停止するため、無理にもエアコンとは言わない。
灯油継ぎだけは溢すのが心配であるため、ヘルパーさんが来るまでに灯油が尽きたらエアコンを使うようにと母に言う。

公共料金も見直さねばならない。
電気のアンペア数は減らしてもよさそうだ。
NHKのBSももう何年もチューナーは外したままなのに未だに月額を払い続けている。
あとは新聞。
付き合いで購読しているようなものもあるので解約できるものはしたい。
しかしこれらの整理は今回は時間切れなので次回帰省したときにしよう。
また父の口座が凍結されているため自動引き落としはされない。
請求書が届くはずなので捨てないで必ずここに入れておいてくれと箱を用意する。

次に今後人と約束していることはあるかと母に聞く。今の調子ではきっとまた約束を違えると思ったからだ。
聞けば新年会の予定がいくつか入っている。
一つは親族会、もう一つは隣組
これらは四十九日も終わっていないので参加はしない。
しかしもう一つ。
躍り教室の新年会だけはどうしても出ると言う。
その日は着物を着て、得意料理の豆を煮て持ち寄るのだそうだ。

次第に母の躍り教室に対する想いが見えてきた。
日本舞踊は母の中では何を差し置いてでも優先すべきことであり、もはや楽しみの域を超えている。
茶道や華道のように立ち居振舞いも重要であり、師範は師範なりの、名取りは名取りなりの所作が求められるようである。
母は名取りという地位を大変誇りに感じており、それは母のアイデンティティなのだ。

それだけに認知症という病気は非常に残酷だ。
今現在、母はまだ名取りとしての体面を保てていると思っているのに肝心の形は体をなしておらず、周囲は気遣ってそれを本人に言わないだけなのだ。
心に身体が伴っていないことに本人は自覚症状がない。
厳格なしきたりを重んじる躍り仲間の内にはそれを快く思っていない人もいるだろう。そういう世界なのだ。

人としてのアイデンティティ、尊厳が脅かされる。
それが認知症だ。