おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(79)日記の効果

日記は元々つける習慣はなかったのだが、2004年頃のブログ黎明期、日々の出来事を公開している人たちを見ていいものだなと思った。
行った場所、会った人、食べたもの、観た映画、聴いた音楽、読んだ小説。
これらは活字に残すことで記憶に残り糧となる。
また、何てことのない日常にも意味を持たせることができる。
毎日を大切にできる気がした。

私も真似事をしてみるのだが、上手くいかない。
ネットに公開するとなると個人を特定できるような内容は書けないし、どうしても無難な内容にまとまってしまう。
次にプライベートモードで書いてみるのだが、やはり個人情報をネットに預けることに抵抗がある。
かといって手書きの手帳では電車の中などでは開きづらいし、修正が面倒、検索ができないといったデメリットもある。

こうして何度も挫折する内、やがてスマホを持つようになった。
その頃、娘が生まれる。
写真や動画はスマホで撮れるが、些細な仕草やそのとき自分が考えていたことまでは残せない。
日記欲が再燃する。
しかし当時は仕事でどうしても相容れない相手と毎日接しなければならず、精神的余裕がなかった。
毎日俯くように歩いていた。
そんな中、東日本大震災があった。
命の尊さや儚さといったことはもちろん感じたが、日々刻々と変化する被災地の状況、原発事故の成り行きを追うのが大変だったこともある。
事実は瞬く間に置き去りになってしまう。
忙しいからこそ、精神的余裕がないからこそ、記録をつけなければならないと思った。

その頃「瞬間日記」というアプリを見つけた。
これならばネットに預けることなく端末内に保存できるし、操作も楽だ。
また、これに関しては一日分の字数制限があることがかえってよかった。
字数制限があることで、ちょっとした時間で書き終えることができ、これならば持続できるという自信もつく。

これにより初めて日記を習慣づけることに成功した。
2011年の春から現在まで、毎日欠かさず続けられていて、今ではルーチンと化している。
タイミングは帰りの電車内。
その瞬間、最も頭に引っ掛かっていることを書き出すのだ。
当然嫌だったこと、上手くいかなかったことが真っ先に思い浮かぶこともある。
だがそれも偽ることなく書くようにしている。

日記の効果はもちろん後から振り返った時にこんなことがあったと思い返せる点は大きい。
例えば梅雨時は案外体調を壊しやすいから気をつけようといった統計と学習の効果もある。
たとえ一日一行であっても、10代の内からつけておけばどれだけよかったことかと思う。
しかしもう一つ。
私は日記を続ける過程で副次的な作用を発見する。
それは、気持ちに折り合いをつけられるという効果だ。