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おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(1)父が死に、母の介護が始まった

真夜中の着信で飛び起き瞬時にそれが訃報であることを察知した。

スマホの画面に「実家」の文字。

慌てて出ようとするが手汗で滑ってどうやっても「通話」ボタンが押せない。

鼓動が高鳴る。

ようやく繋がった第一声が母の声で、私は父が死んだのだと悟った。

 

2016年の元日の夜、父は風呂場で意識を失い、帰らぬ人となった。

先に寝室で寝る準備をしていた母がいつになっても風呂から出てこない父を心配し様子を見に行ったところ、浴槽に顔を埋めたまま動かなかったのだという。

長年に亘る闘病生活であったがその前年に傘寿のお祝いをし、80歳を越すことができたのは今から思えば幸いだった。その節目の年を丁度終えた元日という日に生涯を終えたのは真面目一本鎗だった父らしい最期といえる。

 

父が私に遺したものは何だったのだろう。

実家に向かう新幹線の中で考えようとしたが差しあたって目前の葬儀を終えないことにはまとまりそうにない。

長男である私は喪主を務めなければならないのだ。

 

しかし目の回るような慌ただしさの中葬儀を一しきり終えた後も、私は感傷に浸ることはできなかった。それは父の死後、一年を過ぎた今でも同じだ。

私はいまだに父を思い出して涙を流したことはない。

 

理由は、母の認知症である。

一連の葬儀の準備の最中に、親族一同、初めて母の様子が尋常でないことに気が付いたのだ。

長年連れ添った伴侶を亡くしたのだから、普通でいられないのは当然といえる。

しかし母の行動は、喪失感や寂しさに起因するものとはおそらく違う。すべてにおいて少しずつではあるが、ズレているのだ。

 

親族の一人から、母は少し前から心療内科に通っていることを聞かされた。

最初は不眠。そのあと鬱病と診断された。

この先一人になってしまう母をそのままにしてはおけない。

私と姉は母の今後について相談を重ねた。

介護制度を利用しよう。それも一刻の猶予も許されない。

そのときから私は認知症を疑っていた。

この様子では最悪、火事を起こしてしまうだろう。

数日前まで考えてもいなかった不安と重荷が一気に圧し掛かる。

 

5歳の娘には長い正月休みを退屈な田舎で過ごさせてしまった。

葬儀と介護の相談でろくに相手をしてやれないまま。

一見大人しく子ども向け雑誌やDVDで時間を潰してくれたが、ストレスもあるだろう。

父が死んでから六日目、娘を近くの日本海が見える展望台へと連れ出した。

「好きなだけ大声出していいよ」

「なんて言えばいいの?」

ドラマなんかでは天国のおじいちゃんに向けてありがとうとでも叫ぶのだろうがそれは余りにも照れ臭かったので「うみーって叫んでごらん」と促した。

冬の日本海に向かって腹の底から「うみー!」と絶叫する娘の横で、私もやってみようと思った。

もしかしたら泣けるかもしれない。

父への感謝と、母の今後に待ち受ける暗闇を振り切るように「うーみー!」と叫んだ。

普段大声を出し慣れていないためだろう。

えづいて吐きそうになり、泣くことはできなかった。