(85)なにがどうなろうと
前回の投稿から丸6年が経とうとしている。
前回は丁度転職のタイミングで忙しくなってこのブログを休止したのだと思い出す。
当時は日々進行する認知症の症状と、それに対して施設を拒み頑なに一人暮らしを継続する母、と「詰み」の構図にあったのだ。
私は精神的な救いが欲しくて、ネットの同じような体験をしている方々のブログを巡り、また自身も親の介護を始めてからの一年半の記録を残したくてこのブログを始めたのだ。
現在はというと、その後色々大変な事は多かったものの、なんとか施設に入居することができ、当時に比べれば行き止まりのような焦燥感はかなり薄れてはいる。
ひとえに施設の方々のお陰だと感謝しかない。
本当に何度施設の方が、大袈裟でなく天使のように見えたことかわからない。
お陰で私は仕事と自分の生活に集中することができ、この6年間で不惑とまではいかないものの精神的に余裕ができたと感じる。
しかしまだまだ課題は残されている。
そろそろ母の最期のことを覚悟しておかなくてはならないし、この先親族の終末も相次ぐことだろう。
それぞれの家庭にそれぞれの事情があり、個人の意思があり、病気と介護がある。
併せて空き家となった実家の処遇や、先祖代々続く土地や墓を私の子どもにどう伝えていくのかも考えていかねばならない。
そこには故人の思いや土地のしがらみも常に纏わりつくだろう。
だから解決を急ぐことはならないし、私の老後を費やして少しずつ解消していく問題と覚悟を決めている。
そのためには健康でいることと、金銭の蓄えがなくてはならない。
背負う荷は重いが、悲壮感に暮れることはないと思っている。
塞ぎこんだところで事態は好転しないのだし、だったら楽観的に生きた方がいい。
コロナ禍は確実に私も、家族も、親族も、同僚も、街の人全員の人生を変えた。
仕事のスタイルや交流関係。
幸いにして私は収入には影響がなかったが飲食業や観光業の従事者に与えた影響は如何ほどか。
そして誰しもが大きく影響を受けたのは「心」の問題ではないだろうか。
私もコロナ禍に入ってから二か月後くらいに、思うように仕事を進めることができず、初めて鬱病の入り口を見た気がした。
ちゃんとした統計は見ていないがコロナ禍で心を患った人は多いのではないだろうか。
身近にも思い当たる例がいくつかある。
私がどう乗り越えたかというと、やはり楽観的であること。これに尽きる気がする。
常に心の支えとなっているのは、もう20年以上愛読している宮本輝『流転の海』シリーズで繰り返し登場する言葉。
「なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん」
それはけして捨て鉢になるということではなく、身に降りかかる諸問題を自然の流れとして受け止め、都度水のように柔軟に形を変えながら対処していくという姿勢だ。