おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(84)病死をフラットに考える

自分が病気になること、いずれ死ぬことはできれば考えたくないことだ。
なぜなら私たちは日々、明るく前向きにといった言葉たちに囲まれている。
楽しいことを考えていれば幸せだし、生活が上手くいくことも知っている。
だから敢えて暗い方は見ないよう無意識が働く。

しかし病や死と向き合うことと、明るく前向きに生きることは果たして両立しないのだろうか。
明るく前向きとはいかないまでも、平静な気持ちで見つめ返すことは出来ないだろうか。
そんなことを考える。

人生を一つのイベントと考えればどうだろう。
幼少期、少年期は本番に向けての準備期間。明確な目的が見つからないなりにも好きなこと、向いていることを見つけようと苦心する。
成年期に入り否が応にも社会というステージに立たねばならない。
そんな中、病気は例えるならばトラブルだ。
だから我々はトラブルを予測し、万が一に備える。起きてしまったトラブルは対処し継続を目指す。
壮年期に入りそろそろイベントの終わりが見えてくる。それが死だ。
イベントの目的は達成できただろうか。
反省点があったとすれば、それを情報共有しておけば、次の誰かのイベントに役立つのではないか。
トラブルは当然のことだし、いつか終わることも分かっている。
だからこそ限りある時間の中で、最善を尽くそうとする。

病や死を忌避するのは、それが不安だからだ。準備が出来ていないからだ。
高校時代、私は将来が見えずに不安で仕方がなかった。消えかけた蝋燭の炎のように、常に心細かった。
今から思えば、それは情報不足、経験不足が招いたことだとわかる。
40も目前になった今、自分の限界は見えたが高校時代の心細さに比べたら何てことはないと思う。
視野が広がり、ある程度のコントロールが利くようになったからだ。

私たちは誰しも自分だけの人生というイベントの、たった一人の主催者だ。
主催者なのだから本来コントロールは自在なはずだ。
当然不測の事態も起こるだろう。
しかしそれに立ち向かうこともまた、コントローラーを握っている自分にしか出来ないことなのだ。

そう考えると病や死もまた、自分だけのイベントのシナリオの一つに過ぎないはずだ。
病気の種類も死期も選べはしないが、それは自分だけのものなのだ。
病も死も、生も幸福も、自分に与えられた外的要因であり、それを扱えるのは自分ただ一人なのだ。
悲嘆に暮れて過ごすのも楽観的に生きるのも自分次第。
その劇は確かに悲劇かもしれないが、演者の気持ちはそれとは別のはずだ。