おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(56)職人の血

戦後の昭和20年代後半、日本中にパチンコブームが興ったという。
私の地元も例外ではなく、駅前をはじめとし市内には何軒ものパチンコ屋が林立した。
母の父、つまり私の母方の祖父は知り合いに話を持ち掛けられ、共同出資でパチンコ屋を開店したのだそうだ。
しかしやがてそのギャンブル性の高さに批判が集まり規制が敷かれ、全国の多くのパチンコホールは店を畳まざるを得なかった。
同じく祖父のパチンコ店も潰れ、負債を抱え家を手離すこととなった。
そのため母が床屋の主人とお隣同士だったのはその頃までということになる。
私はそのことを二人との会話から初めて知ったのだ。

祖父は元々、下駄職人であった。
私の記憶にある母の実家は新しく住み替えた家であるわけだが、そことて中心街から遠く離れているわけではなく、祖父の作った下駄や問屋から仕入れた靴を並べるのに十分な店舗スペースもあった。
そして居間の奥には小さな中庭があり、その縁側が祖父の作業場だった。
幼い頃の朧気な記憶を辿れば、中庭から射し込む逆光に浮かぶ職人の陰影。それはただ一心に木材を加工し続ける祖父の姿だ。
お盆に親戚一堂が集合し宴会を開く際、祖父の定位置は作業場近く。その時もやはり無口で、楽しそうに談笑していた記憶はまるでない。

そんな昔かたぎの祖父が流行の儲け話に乗ったというエピソードは甚だ意外だ。
母は六人兄弟。時代背景を考えれば戦後の復興期。一足一足に手間と時間をかける下駄職人という仕事だけで一家を養っていくのは相当大変だったということかもしれない。
寡黙な人柄から祖父は職人としての一本道を突き進んできたものだとばかり思い込んでいたが、中々に波瀾万丈な人生を送ってきたのだ。
それでも晩年は本職の下駄作りに没頭できていたようだ。

時々思うことがある。
私にも、下駄職人の血が流れているのだということに。
自分の中に緻密さや繊細さがまるでないだけに、そのことが妙に誇らしく感じるのだ。ないものだと諦めている職人気質は、実は潜んでいるだけなのと勝手な妄想を膨らませることができるのだ。