おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(40)うつと認知症

その日の私たちの計画はこうだった。
外は雨のため妻は娘の相手をしながら弔問客にお茶を出したり、食事の支度。
姉は戴いたお香典の精算と葬儀屋への支払い。代理の方から受け取ったため香典返しを渡せていない方のリストアップなど。
そして私は市役所への問い合わせ。介護保険証など返却すべきものは何か。葬祭費を受け取るために必要なものは。
これに福祉課への相談も追加すべきだ。
鬱病の母が独りになってしまった。こういった場合、家族としてできることは何か。

不確かなことなので姉には黙っていたが、私の頭ではこのとき既に「認知症」の三文字がよぎっていた。
鬱病はそう診断されたのなら確かなのだろう。
しかし母の様子は私の知る鬱病の症状と少し違う。

社会人になってから、私は鬱病を患ってしまった人を何人か見てきた。
そのどれもが男性だったし、私自身鬱病について本腰を入れて勉強したわけではないので感覚的なものだが、無気力、無表情は一つの特徴のようだ。
横になっていることが多く、お風呂も億劫だと言って数日おきにしか入らない。会話していても表情がこわばっている。
この辺り、確かに母はうつの症状が出ているようだ。

一方、行動に迷いがない、思いついたことはすぐ実行しないと気が済まないように見える辺りはどちらかと言うと躁なのではと思うし、なんと言っても認知機能の衰えは顕著だ。
姉が役所に提出する書類を記入する際、「ウチの本籍って何だっけ」と母に聞いた。母は住所をそのまま答えた。
「それは住所でしょ?」「うん、同じでいいの」というやり取り。
私はスマホにメモしてあったので正解がわかったが、実際、本籍は住所とは地番が違う。そのことを教えたが、ああそうかとたいして気にも留めた様子はない。

このやり取り一つを取ってみても、
・身の回りの情報がわからなくなる
・特に数字が弱い
・間違っているかもしれない、と立ち止まらない
・違うのでは?と問い質されても自信が揺るがない
・理論的な説明を加えず、そういうものだと断言する
・結果的に間違っていたとしても、反省する様子がない
といった特徴が見て取れ、これはこの数日間で幾度となく表れた。

鬱病の人はどこか自信がない、あるいは病気を自覚した人はそれを取り繕うように饒舌になる。
母はそのどれも当てはまらないように見えた。自信もあるし、取り繕いもしない。
私は福祉課に電話を入れ、母が鬱病であることと、もしかしたら痴呆、認知症であるかもしれない旨を伝えた。