おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(29)健康な若者前提で成り立つ社会

仏間に寝かせた父の遺体の横には仏具が並べられ、そこに葬儀屋は二十四時間もつという蝋燭を供え、火を絶さないようにと言い残して帰っていった。
私たちの寝室は全て二階であったが、地震でも起きて蝋燭が倒れてはいけないと思い、私は仏間に隣り合った居間に布団を運び、その夜は父と一緒に眠ることにした。
肉体的な疲れよりもまだ精神的な動揺が勝っており、蝋燭の揺れる炎の灯りや柱時計の秒針の音でなかなか寝つけなかったのを覚えている。

翌朝も早い。
今日も忙しい一日になるからと、戸棚からビタミン剤を見つけ出し飲む。
まず棺を運び入れねばならないため玄関から続く廊下、台所を片付ける。
台所のテーブルは前日、母が何故か急かすので片付けたが、廊下に並べられた父の鉢植えがまだだし、それを並べるための台は私一人では持ち上げられなかった。

とにかく男手が足りないのだ。
これは私の周りだけなのか、日本は女性の方が寿命が長いから全国的なことなのか。
その日身内で確保できた男手は私の従兄弟ただ一人だった。
その従兄弟と二人でなんとか鉢植えと台は片付けられたものの、湯灌が終わり、棺を運び出す際も手が足りない。
なんとか霊柩車の運転手さんにも手伝ってもらい、私、従兄弟、葬儀屋さんの四人で運び出すことができた。

社会のあらゆる仕組みが心身ともに健康なことを前提に成り立っている。
木造家屋の多い日本で蝋燭、線香といった火気を常設する風習がある。
死亡届けに記入捺印し死亡診断書と共に市役所に持参し火葬許可証を受け取らる。火葬許可証は葬儀の後火葬場で提出する。
こういった一連の手続きを慌ただしい中漏らさず遂行せねばならない。
若者が大半を担っていた社会では成立したのかもしれないが、今は少子高齢化社会なのだ。

(28)父と朱鷺

父が亡くなったのは元日の夜だったのでどうなることかと思ったが、翌三日にはお通夜を営むことが出来た。正月休みの真っ只中で弔問の方には大変申し訳なくはあったのだが。
近頃の都会では火葬場が空かず、亡くなってから一週間近く待たされるケースもあるそうなので、その点では速やかに執り行うことが出来たといえる。
また、田舎なので訃報は新聞の地域欄に掲載され、知人はそこで知ることが多い。しかし正月の三が日。土日とも重なったため掲載はいつになるか分からない。
絶えず訪れる弔問客の合間に、母は報せるべき相手に電話をかけた。

まず新年の挨拶をし、続けて父の死を伝える。その際、死因は「お風呂で寝てしまった」のだと言う。
確かに医師から伝えられた死因は心停止であった。しかしそれまでの父の様子や、死亡当時鼻血が出ていたことから、ヒートショックによる脳梗塞なのは間違いないようだ。
母はもしかしたら前兆に気づけなかったこと、あるいは無理矢理にでも病院に連れて行かなかったことを悔い、寝たことにしたいのかもしれない。
私たちはそれを気遣って死因に関しては特に口を挟まないままにしておいた。

やるべきことは尽きない。
遺影の写真。
これは前年に私たち家族と並んで撮影した一枚にした。
父はカメラも趣味で基本的に撮影者に徹することが多いため本人が写っている写真は少ない。
しかしこの一枚は孫と一緒にいるときの自然な笑顔で、弔問の方からもいい写真ですね、と声をかけていただくことが多かった。

斎場には遺影の他にも、思い出の品や写真を並べることができると言う。
これも孫を抱いた写真。
父が育てたサギソウの鉢植え。
そして朱鷺の写真。
数年前に佐渡で繁殖に成功し放鳥した内の一羽が地元に飛来し、父は同じく愛鳥家の方とそのポイントに出向いては、粘り強くシャッターチャンスを狙っていた。他の人に知られ大挙されては寄り付かなくなってしまうため、そのスポットは秘中の秘であったのだそうだ。
拡大プリントされ額に収められたその一枚は、飛び立つ寸前の真っ白な朱鷺を捕らえたものだった。

(27)終活と死期を悟ること

所有物は機能も色味も派手な趣味は一切なかった父だったので、葬儀のプランは全て中間かもしくはそれより下でよい。
ただ園芸の趣味はあったので、祭壇の周りはなるべく寂しくならないように色とりどりの花で囲もう。
そんな調子で葬儀のプランを決めていく。
料金プランは数万円単位で幅があり、通常の買い物であったら一週間は悩むような価格だが、それも即断していかねばならない。

突然の死だったため遺言もなければましてや生前に葬儀の計画など立てていない。
なるほど「終活」とはこのような事態に向けてしておくものなのだなと感じた。
ただ一つ、この葬儀屋を利用するにあたっての積立金をしていてくれたのは非常に助かった。
私たちが利用した葬儀屋ではいわば保険金のように毎月掛け金を支払う仕組みがあり、実際の葬儀の支払いに利用できることと、それに加えて割引きも適用されることになっていた。

葬儀屋が一旦引き上げ、入れ替わるようにして父のいとこにあたる方が駆け付けた。
父が亡くなる当日、新年の挨拶で会ったばかりだという。
もっと話したそうなのだが、なかなか言葉が出ない様子だったのだそうだ。
母が言うには、その日は朝から歩き方も少しおかしかったという。

父は肝臓に重い病気を抱え、そのための闘病を何年も続けてきた。
それ自体は幾度かの手術を乗り越え完治に等しい状態まで回復したのだ。
しかし数年前から言葉が覚束なくなっていた。
前年の11月頃には段差も何もないところで躓きズボンを破く。
叔母などが病院を勧めるが本人の意思で行かなかったのだそうだ。
今回の死も脳梗塞であったと思われる。

しかし本人がまだまだ生きる気でいたことは間違いない。
実際、一週間後の三連休では孫に会う約束を楽しみにしていたのだし、父の性格からして死期を悟れば身辺整理を欠かさなかったことであろう。
まだまだ生きる気でいたからこそ、病院に行かずとも平気だと思ったのだ。

母から父が最期に掛けていた眼鏡を見せてもらった。
先月、新調したばかりだった。