おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(42)父の闘病

皆で夕食を終え、妻は娘の寝かしつけに寝室へ、姉はお風呂へ。
私と母は居間で二人きりになり、お互いの近況やら昔話やらの会話を交わす。
父の生前も、父はいち早く寝室に向かうため、これは私が帰省した際の恒例の儀式のようなものとして自然とそうなる。

さっきまで私の年齢を10歳も多く間違えていた母。
しかしここでの会話は今までと変わらない、記憶力の確かな母だった。

父の思い出。
元々肺炎の家系で両親もそれで早くに亡くしている。
同じく父も若くして肺炎を患い、大きな手術を施した。
私も、父の背中の肋骨に沿って大きな手術痕が残っていたのを今でもよく覚えている。
その手術の際の輸血で、C型肝炎に感染した。
慢性の肝炎は自覚症状はないらしく、発覚した頃にはかなり進行していたという。
インターフェロンによる投薬治療を始めた父。
姉が数年経ってから聞かされた話によると、毎回船酔いする程苦しかったのだそうだ。

しかしそれもやがて肝がんへと進行し、18年前に手術。
万一の事態に備え私も病院に呼ばれた。
ところがそのとき私は、癌であることは教えられていなかった。
ここでも両親特有の、極力子どもに心配かけまいとする姿勢がある。

手術は成功した。
麻酔から醒めたとき真っ先に私の顔が目に入り、父は「生きている」としみじみ思ったのだと母は言う。
ところがそこから15年後、癌が再発した。
父は母に、病症は全て把握しておきたいから隠さないでくれということ、寝たきりになるようなことがあれば延命措置はして欲しくないことを伝えたのだという。

今度の手術はラジオ波を用いて癌細胞を焼くというものだった。
これにより完治するかは主治医としても難しいだろうという見解だったが、術後の経過を見るに、完治したといってよいレベルにまで快復したのだと言う。
それは主治医にとっても自慢だった。
それなのに別の理由で命を落とすなんて。先生もきっと残念がるだろう。
最後の晩御飯は大好きな魚。ぶりの刺身とぶりの塩焼きだった。

悲嘆に暮れるといった様子はなく、淡々と、そしてしっかりと、母は話した。

(41)ピアノの音色、感情の色

市役所への手続きはまとめて翌日行うことにした。
福祉課へは取り合えず母の国民健康保険証を持参すれば話を聞いてもらえるらしい。

夕方になり弔問客の足取りも一段落ついた頃、私は散らかった洋間を片づけそこにファンヒーターを運び入れた。そこには昔姉が弾いていたピアノがある。

ピアノはまだ習いたての娘。
完璧主義というよりは融通が利かない性格で一度間違えると最初からやり直す。すぐに嫌になって投げ出すものの出来るまで繰り返すというのは案外向いているのかもしれない。
段ボールの隙間に何とか小さな椅子を一つ置けるスペースを確保しそこに母を座らせる。
埃の被ったピアノの蓋を開け赤い鍵盤カバーを捲る。
覚えたての練習曲。既に両手で弾けるようになっている。

何年振りかに我が家にピアノの音色が響いた。
母にとっては初めて見る孫の演奏。
なのにやっぱり無表情で。瞳に精気が宿っていないという表現があるが、まさしくそれなのだ。
丸まった背中からはあらゆる感情の色が抜けてしまったように見えた。

鬱病であればそれは治る病気だ。
精神科に通い、何とかこの範囲ならやっていけるという生き方を見つけ社会復帰した人も知っている。
しかし万一認知症だとしたら…
そのときの私はたいした認知症の知識も持ち合わせていなかったが、進行を遅らせることは出来ても完治はできない病気であることくらいは知っていた。
私の知っている母はもう戻ってこないのだろうか。
父とは正反対の、明るく賑やかでお喋りな母。

それでも笑顔はまだ時折見せる。
この笑顔を守らなければならないのだ。
今はまだ父が死んだばかりで動揺もあるだろう。
だから一刻も早く、父のいない新しい日常を作ってあげるのだ。
私はそんなことを考えていた。

(40)うつと認知症

その日の私たちの計画はこうだった。
外は雨のため妻は娘の相手をしながら弔問客にお茶を出したり、食事の支度。
姉は戴いたお香典の精算と葬儀屋への支払い。代理の方から受け取ったため香典返しを渡せていない方のリストアップなど。
そして私は市役所への問い合わせ。介護保険証など返却すべきものは何か。葬祭費を受け取るために必要なものは。
これに福祉課への相談も追加すべきだ。
鬱病の母が独りになってしまった。こういった場合、家族としてできることは何か。

不確かなことなので姉には黙っていたが、私の頭ではこのとき既に「認知症」の三文字がよぎっていた。
鬱病はそう診断されたのなら確かなのだろう。
しかし母の様子は私の知る鬱病の症状と少し違う。

社会人になってから、私は鬱病を患ってしまった人を何人か見てきた。
そのどれもが男性だったし、私自身鬱病について本腰を入れて勉強したわけではないので感覚的なものだが、無気力、無表情は一つの特徴のようだ。
横になっていることが多く、お風呂も億劫だと言って数日おきにしか入らない。会話していても表情がこわばっている。
この辺り、確かに母はうつの症状が出ているようだ。

一方、行動に迷いがない、思いついたことはすぐ実行しないと気が済まないように見える辺りはどちらかと言うと躁なのではと思うし、なんと言っても認知機能の衰えは顕著だ。
姉が役所に提出する書類を記入する際、「ウチの本籍って何だっけ」と母に聞いた。母は住所をそのまま答えた。
「それは住所でしょ?」「うん、同じでいいの」というやり取り。
私はスマホにメモしてあったので正解がわかったが、実際、本籍は住所とは地番が違う。そのことを教えたが、ああそうかとたいして気にも留めた様子はない。

このやり取り一つを取ってみても、
・身の回りの情報がわからなくなる
・特に数字が弱い
・間違っているかもしれない、と立ち止まらない
・違うのでは?と問い質されても自信が揺るがない
・理論的な説明を加えず、そういうものだと断言する
・結果的に間違っていたとしても、反省する様子がない
といった特徴が見て取れ、これはこの数日間で幾度となく表れた。

鬱病の人はどこか自信がない、あるいは病気を自覚した人はそれを取り繕うように饒舌になる。
母はそのどれも当てはまらないように見えた。自信もあるし、取り繕いもしない。
私は福祉課に電話を入れ、母が鬱病であることと、もしかしたら痴呆、認知症であるかもしれない旨を伝えた。