おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(73)ほとんどの家電に自動停止機能がない

翌日、姉が帰る日。
分担しできることは全てやっておこう。
まず私は家と金庫の合鍵作り。金庫は家の重要書類を入れ、母が間違って何処かにやらないようにするためで、私と姉で鍵を保管する。
鍵を作っている間に掃除用具の買い出し。
いくらヘルパーさんに頼むといっても少しくらいは自分でやらなければ本当に廃人になってしまう。
粘着テープをローラーで転がす掃除用具や、風呂掃除用に柄のついたスポンジを買う。
これであれば足腰に負担をかけずできるだろうと考えたのだ。

一方姉は家電店へ行き安全装置つきのガスコンロと電気ケトルを買ってくる。
ガスコンロは一定の時間が過ぎると自動で止まり、また吹きこぼれも検知してくれるという。
実際、母は何度となく鍋を吹きこぼすことになるのだが、私たちが居るときは私たちがすぐに消し止めるため、自動消火が働いた瞬間は見たことがない。

一方の電気ケトル
水を入れ、コンセントを差した台の上に乗せスイッチを押すだけだ。
使い方はまだよかったのだが、問題は放っておくと保温状態が続くことだ。
保温状態であることはスイッチのランプが灯っているのでもう一度押せばいいのだが、より確実に止めるために母にはコンセントごと抜くよう言い聞かせる。

ここで私は家電の問題点に気がつく。
ほとんどの家電製品は、自動で止まらないのである。
特にこの冬場、加熱する家電の使用頻度は高く、同時にこれらは電気消費量が多いため電気代に直結する。
我が家においても、エアコン、ホットカーペット、炬燵、電気毛布などが欠かせない。
保温機能があるものとしては他にも炊飯器と風呂の電気パネルが当てはまる。
そしてこれらのいずれも、スイッチを切らない限り自動では停止しないのだ。(風呂の電気パネルだけは後日自動停止機能を発見した)
私たちですらスイッチの消し忘れは年に数回はやってしまう。
そしてそれは同居人がいる場合、ダブルチェックが機能する。
独り暮らしとなってしまった今の母にとっては非情に厳しい現状だ。

家電業界が不振というが、高齢者のための安全・安心機能を備えた製品がもっと増えれば我が家のように買い替え需要はある。
他にもリモコンの操作を簡単にするとか、テレビの音量を自動調整してくれる機能など、高齢者とその家族のライフスタイルを考えればそれを補助する製品はいくらでも思い付きそうなものだ。
高機能・高画質を謳い文句としたテレビばかり出し売れない売れないと嘆いている家電業界を見るとやっぱりずれているな、と思わざるを得ない。

そして私たちの危惧は現実のものとなり、その年の冬、到底独り暮らしとは思えない額の電気料金を毎月支払い続けることになる。

(72)信頼関係が崩れていく

ヘルパーさんに来てもらえるようになるまでは母を極力一人にしないようにせねばならない。
姉は関東に済む母の妹さんに連絡を入れ、母の状態を説明し何日か一緒に寝泊まりして欲しいとお願いした。
妹さんは先日父の葬儀で来たばかりであったが、了承してもらえた。

それまでリハビリの予定はないだろうか。
母に聞くと、もう三日後には予約していて、ご近所の方と一緒に行く約束もしているのだという。
リハビリセンターには先程着いていったので分かるが、予約しているのなら予約券があるはずだから見せて欲しいと母に言う。
鞄から出てきた予約券を見てみると、やはり次回の予約日は三日後などではなかった。
「予定を立てたらまず手帳に書いてよ、ちょっと普通じゃないよ」
ほとほと疲れ果てていたこともある。
ややなじるような口調で母に接してしまった。
このときは私もまだ、言い聞かせてどうにかなるものだと思っていたのだ。
しかし「そんな心配せんでも大丈夫だよ」と相変わらず暖簾に腕押しの答えが返ってくるばかりで、虚無感だけが残った。

母の言葉が何一つ信じられない。
そのリハビリにしても、本人曰く「毎日通っている」のだそうだが、それも違うのだ。伯母に言わせると週一日、多くても二日なのだそうだ。

妻と娘が帰り、3人だけの静かな食卓。
否が応にも空気は重苦しくなる。
母は早々に食事を終えると腰を上げ、何処かへ向かう。
足音から姉の部屋に入ったのだということが分かり、姉と目を見合わせる。
すぐに手ぶらで戻ってくる。
何事もなかったかのように無言でテレビのリモコンを手に取る。
「姉ちゃんの部屋に何か用あった?」
一応は聞いてはみたものの目的はわかってる。
「うん、薬どこ?ちょうだい」
睡眠導入剤を飲みすぎるので、姉が預かっていたのだ。
姉はそれを簡単に見つからない場所に隠しておいた。
必ず寝る前に私が手渡すから、と言ったにも関わらず母は勝手に姉の部屋に取りに行ったのだ。

こんな簡単な約束も守れない。
それに万が一自分で発見できた場合は黙って飲んでいたのだろうか。
家族の目まで欺くようになってしまったのか。
何十年と培った家族の信頼関係が脆くも崩れ去っていく。
視界がどんより曇った気がした。

(71)老後の蓄え

雪は午前中で止んだ。
六日間の滞在を終え、妻と娘が先に帰るため私は駅まで見送る。
途中だだっ広い駐車場にまだ足跡もないふかふかな雪が積もっていたのを見つけ、娘が遊んでいいかと聞く。
いいよと言うと喜んで駆け出した。

私も笑顔になりたいが今はできない。
母は帰りのバスでもやはり降車ボタンを押すことができなかったのだ。
認知症の可能性。10年、20年とかかるかもしれない介護が見えてきた。
今年はDIYを趣味にしようと思って、ホームセンターでペンキや刷毛など一式を買い揃えたけど、そんな余裕はなさそうだな。
だけど娘は育ち盛りだ。
父親と公園を走り回ったり一緒にお絵描きや工作をしたり。それらは今しか出来ないことなのだ。
これだけは続けよう。

この六日間、妻には家事の一切を任せきりだったし、奔放な娘は場を明るくしてくれた。ありがとう。
二人が改札を抜けるのを見届けると、踵を返して家に戻る。
後で聞くとホームからその私の後ろ姿が見えたという。
自分の後ろ姿など普段意識することもないが、雪道を力なく物思いに耽りながら項垂れトボトボと歩く己の姿が思い浮かぶ。

この日、葬儀屋への支払いを済ませる。
思いの外、多くの方に弔問に来ていただきそのお香典で全て賄うことができた。葬儀屋に対し毎月掛け金を支払う互助会の仕組みも役立った。
掛け金はまだ母の分が僅かに残っていたため、お香典の残りで全て支払い完了とする。

しかし今回弔問に来ていただいた方の大半は高齢者である。
不謹慎な言い方になってしまうが、その方たちが亡くなれば今度はこちらが香典をお出しする番だ。
トータルで考えればやはり葬儀代は生前よりお香典とは別にして計算しておかなければならない。
それに加えてお布施、お墓。
現役時代に蓄えるべきお金は老後の生活資金に留まらず、死後に出ていくお金もまた然りだ。
そして介護費用。
実際我が家は介護制度の範囲なら問題なかったのだが、この先、金銭感覚を無くした母の浪費に悩まされることになる。

ニュースでは度々高齢者の貯蓄が経済を停滞させているような話題が上る。
日本全体ではそれは正しいのかもしれないが、今の我が家に限って言えば「貯蓄は幾らあっても足りない」だ。