(86)負のドミノ倒し
今回このブログを再開するにあたり、過去の投稿を全て読み返したが、やはり父が亡くなってからの十日間。これが全ての始まりだったので、この続きから回想していきたい。
そこからの二年間は正直思い出すのも辛いことの連続だったが、だからこそ書き残すことの意義は大きいのではないかと考える。
父が死に、母に介護が必要だとわかった十日間。
私と姉はそれぞれの仕事に戻らねばならなかったので何人かの親族に母を託した。
忌引き明けで仕事に復帰した私は、まず会社や仕事関係者に事情を話し、しばらくは東京と地元の往復が続きそうなこと、場合によっては突発的な休暇をもらうことになりそうなことを説明した。
みんな親切で、グループホームやデイサービスのことを教えてくれたが、当時の私はそういった福祉制度やサービスの知識が皆無だったのだ。
一方地元では市の福祉事務所に申請しておいた介護認定の申請が進んでいた。
調査員による面談が実施されるのだが、きっと母は何も困っていないと答えるだろう。
しかしそこは叔母が先回りして調査員の方に認知機能が低下している件を伝えてくれたのだ。
予想通り、母は面談の際に全部ひとりでできるから問題ないと答えたそうだ。
さらに認知テストの結果もほぼ問題なしと出て、介護認定が危うくなる。
しかしケアマネージャーをつける前提で話は進み、10日後の面談に私も立ち会うことになった。
それまでは父が亡くなり一人は寂しいだろうからという理由で叔母が泊まり込みでついていてくれる。
私はお礼の電話を入れ母の様子を聞いた。
きっと買い物の付き添いで感じたのであろう、お金の管理が心配だということを聞かされた。
さらに不眠でかかりつけになっている診療所にも付き添ってくれた。
一週間前に「薬物依存症」と告げられた診療所だ。
そこで今度は「廃用症候群」という言葉が出てきた。
加齢や疾患により心身機能が低下する障害のことらしい。
四年前の椎間板ヘルニア以降、活動量が低下したことに関係しているのであろう。
そこから不眠、睡眠薬依存、認知症というように負のドミノが倒されていった様子を思い描いた。
そしてその負のドミノはその後わかりやすく私や姉にも連鎖していくことになる。
(85)なにがどうなろうと
前回の投稿から丸6年が経とうとしている。
前回は丁度転職のタイミングで忙しくなってこのブログを休止したのだと思い出す。
当時は日々進行する認知症の症状と、それに対して施設を拒み頑なに一人暮らしを継続する母、と「詰み」の構図にあったのだ。
私は精神的な救いが欲しくて、ネットの同じような体験をしている方々のブログを巡り、また自身も親の介護を始めてからの一年半の記録を残したくてこのブログを始めたのだ。
現在はというと、その後色々大変な事は多かったものの、なんとか施設に入居することができ、当時に比べれば行き止まりのような焦燥感はかなり薄れてはいる。
ひとえに施設の方々のお陰だと感謝しかない。
本当に何度施設の方が、大袈裟でなく天使のように見えたことかわからない。
お陰で私は仕事と自分の生活に集中することができ、この6年間で不惑とまではいかないものの精神的に余裕ができたと感じる。
しかしまだまだ課題は残されている。
そろそろ母の最期のことを覚悟しておかなくてはならないし、この先親族の終末も相次ぐことだろう。
それぞれの家庭にそれぞれの事情があり、個人の意思があり、病気と介護がある。
併せて空き家となった実家の処遇や、先祖代々続く土地や墓を私の子どもにどう伝えていくのかも考えていかねばならない。
そこには故人の思いや土地のしがらみも常に纏わりつくだろう。
だから解決を急ぐことはならないし、私の老後を費やして少しずつ解消していく問題と覚悟を決めている。
そのためには健康でいることと、金銭の蓄えがなくてはならない。
背負う荷は重いが、悲壮感に暮れることはないと思っている。
塞ぎこんだところで事態は好転しないのだし、だったら楽観的に生きた方がいい。
コロナ禍は確実に私も、家族も、親族も、同僚も、街の人全員の人生を変えた。
仕事のスタイルや交流関係。
幸いにして私は収入には影響がなかったが飲食業や観光業の従事者に与えた影響は如何ほどか。
そして誰しもが大きく影響を受けたのは「心」の問題ではないだろうか。
私もコロナ禍に入ってから二か月後くらいに、思うように仕事を進めることができず、初めて鬱病の入り口を見た気がした。
ちゃんとした統計は見ていないがコロナ禍で心を患った人は多いのではないだろうか。
身近にも思い当たる例がいくつかある。
私がどう乗り越えたかというと、やはり楽観的であること。これに尽きる気がする。
常に心の支えとなっているのは、もう20年以上愛読している宮本輝『流転の海』シリーズで繰り返し登場する言葉。
「なにがどうなろうと、たいしたことはありゃあせん」
それはけして捨て鉢になるということではなく、身に降りかかる諸問題を自然の流れとして受け止め、都度水のように柔軟に形を変えながら対処していくという姿勢だ。
(84)病死をフラットに考える
自分が病気になること、いずれ死ぬことはできれば考えたくないことだ。
なぜなら私たちは日々、明るく前向きにといった言葉たちに囲まれている。
楽しいことを考えていれば幸せだし、生活が上手くいくことも知っている。
だから敢えて暗い方は見ないよう無意識が働く。
しかし病や死と向き合うことと、明るく前向きに生きることは果たして両立しないのだろうか。
明るく前向きとはいかないまでも、平静な気持ちで見つめ返すことは出来ないだろうか。
そんなことを考える。
人生を一つのイベントと考えればどうだろう。
幼少期、少年期は本番に向けての準備期間。明確な目的が見つからないなりにも好きなこと、向いていることを見つけようと苦心する。
成年期に入り否が応にも社会というステージに立たねばならない。
そんな中、病気は例えるならばトラブルだ。
だから我々はトラブルを予測し、万が一に備える。起きてしまったトラブルは対処し継続を目指す。
壮年期に入りそろそろイベントの終わりが見えてくる。それが死だ。
イベントの目的は達成できただろうか。
反省点があったとすれば、それを情報共有しておけば、次の誰かのイベントに役立つのではないか。
トラブルは当然のことだし、いつか終わることも分かっている。
だからこそ限りある時間の中で、最善を尽くそうとする。
病や死を忌避するのは、それが不安だからだ。準備が出来ていないからだ。
高校時代、私は将来が見えずに不安で仕方がなかった。消えかけた蝋燭の炎のように、常に心細かった。
今から思えば、それは情報不足、経験不足が招いたことだとわかる。
40も目前になった今、自分の限界は見えたが高校時代の心細さに比べたら何てことはないと思う。
視野が広がり、ある程度のコントロールが利くようになったからだ。
私たちは誰しも自分だけの人生というイベントの、たった一人の主催者だ。
主催者なのだから本来コントロールは自在なはずだ。
当然不測の事態も起こるだろう。
しかしそれに立ち向かうこともまた、コントローラーを握っている自分にしか出来ないことなのだ。
そう考えると病や死もまた、自分だけのイベントのシナリオの一つに過ぎないはずだ。
病気の種類も死期も選べはしないが、それは自分だけのものなのだ。
病も死も、生も幸福も、自分に与えられた外的要因であり、それを扱えるのは自分ただ一人なのだ。
悲嘆に暮れて過ごすのも楽観的に生きるのも自分次第。
その劇は確かに悲劇かもしれないが、演者の気持ちはそれとは別のはずだ。