おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(82)介護に役立つツール

ここまで書いてきたように手帳と日記アプリを活用することで私は記憶の補助と心の整理を行っている。
他にも介護にあたっては役立つツールがいくつかあるので挙げてみたい。

一つはスマホのカメラ。
役所の書類は未だに手書きで提出すべきものがほとんどだ。
電子ファイルなら簡単に手元に原本を残せるが、紙の書類はわざわざコピーをとらねばならない。
そんなときカメラで撮っておけば管理も楽だ。
また、相談相手が高齢者だったりするとメールでのやり取りができず、手紙でのコミュニケーションとなることが多い。
この時も手紙を写真に収めておくと後から簡単に読み返せる。
写真が増えてきたらEvernoteに取り込んでタグをつけておけば整理もしやすい。

遠距離で暮らす姉との連絡はLINEが役立っている。
煩雑なタスクはノート機能を使うと後から修正もできる。
最近はWindows版のデスクトップアプリでもノート機能が使えるようになったため、長文の編集はパソコンから行っている。
また、煩雑なタスクはXMindというデスクトップアプリを使い、まずマインドマップで整理してから書き出すと長文も読みやすくまとまる。
本当はスケジュールも共有したくてGoogleカレンダーを提案したのだが、姉はGoogleアカウントを作ることに抵抗があるらしく実現に至ってない。
こう考えるとLINEにカレンダー機能がつけば非常に助かる。

情報収集ツールも活用している。
一つはRSSリーダーであるFeedly
これで「認知症オンライン」などの認知症関連ブログを講読している。
もう一つはGoogleアラート
私はキーワード「認知症」を登録している。
こうすると各種ニュースサイトの見出しに「認知症」が含まれる記事が一日一回、Gmailで配信されてくる。
始める前はせいぜい一日3件くらいかと思っていたが、一日平均10件近くは認知症に関する記事が配信されてくるので、社会的関心の高さが伺える。

(81)思想と表現の違い

前回までで私が日記をつける理由はほぼ書いたのだが、補足でどうしてもこれだけは書いておきたい。

気持ちを吐き出す文章は、個人が特定されない範囲であればプライベートな日記でなくともブログやSNSでもいいのではないかと言う人もいるだろう。
または友人に愚痴を聞いてもらうでもいいのではないかと。
その方が共感も得られるし承認欲求も満たせるかもしれない。
実際それで均衡を保てている人も多いだろう。

ただし、前回私が書いた「誰にも見せることのない日記」と「他者に公開すること」の間には決定的な違いがある。
何かと言うと、自分の中にのみ留める内は「思想」であるが、他者に見せたり話したりした瞬間それは「表現」になるということだ。
近頃ネットで「思想の自由」と「表現の自由」を混同した論調を見かけたのでどうしても書いておきたかった。

両者はそれぞれ守られるべき自由ではあるが、別問題だ。憲法でも明確に区別されている。
表現は多かれ少なかれそれに接した相手に影響を及ぼす。
それにより相手を傷つけるのではないか、あるいは公共の場に発した場合は社会にどのような影響を及ぼすかは、やはり考慮した方がいい。
私もこのブログで多少の愚痴は溢すこともあるが、この点は気をつけている。
頭の中で考えることと、人目に触れる場に公開することは異なる意味合いを持つということは忘れないようにしている。
名誉毀損ヘイトスピーチ、差別発言、犯罪予告は論外として。
すれすれの表現や過激な発言は、基本的に自由だが「読む人、聞く人のことを考えた方がいい」、限度ってものがあるでしょうよというのが私の考えだ。

こう書くと「その限度はどこで線引きするんだ」と言われそうだ。
そのラインはケースごと違うだろうし、時代によっても違う。
10年前までなんの問題なかった表現が、今はちょっとどうなんだろうと首を傾げるのは当然のことだと思う。

念のため書いておくと、法規制を強化すべきという考えではない。そんなことをしなくてもいいようにみんなが総体的に生きやすい社会にしようよと言いたいだけだ。
また清廉潔白でなくてはならないとか、聖人君子になるべきとも、微塵とも思わない。
むしろ社会は人間の弱さ、脆さを前提に成り立つべきだと思っている。
一方で人を憎んだり妬んだりすることのない純朴な人も間違いなく存在するし、その人たちが生きやすい社会こそが本来理想なのだ。

しかし私はそうではないのだし、そうなるには遅すぎる。
俗人であることの自覚を持って、その中で遣り繰りするのだ。
醜い心は心に留め、内側で処理して外には漏らさない。
そのために、誰にも見せない日記を書くのだ。

(80)気持ちに折り合いをつける

自分の頭の中だけは誰にも侵害されることのない、際限なく自由な領域だ。
上手くいかないことばかりの毎日で、今の自分ではどう抗っても解決できない難問の前で、ただそこだけは最後の砦だと思っている。
「どうしてこんな辛い思いをしなければならないんだ」
そんな理不尽にぶち当たったら、けして誰にも見せることのない日記に全て吐き出せばいいのだと気がついた。

私は頭の中を開放することで心が楽になると考える。
心理学のことなどまるでわからないが、きっとそんな療法もあるのではないだろうか。
逆に頭の中でまで自分を偽り常識や道徳心に縛られているとそれがストレスとなり心を蝕むのではないかという気がしている。

全て吐き出し、時には激しい言葉も書いたりして鬱憤を晴らすことで思いは昇華され、気持ちをイーブンに持ち込むことができる。折り合いがつけられる。
制約だらけの現実世界で、せめて思考くらいは果てしなく自由でありたい。
どんなに吐き出したところで誰に迷惑をかけるわけでもないので、目を背けたくなるような現実も直視できる。
困難から逃げるのではなく、いっそ取り込んでしまえばいいのだ。
思いが言葉になるとき、黒くて凝り固まったわだかまりが解れていく。
これは記憶を整理するために夢を見るという言説に似ている。
夢の中はとても他人には見せられないように、私の日記はたとえ妻であっても見せることは憚れるほど自由に書いている。

そして辛い出来事も活字に起こすことでどこかしら客観的に見えてくる。
これは「書こうと思った時の自分」とそれを「読み返した時の自分」に時差があるからだ。
私はこれを仕事で問い合わせのメールを書いていて気がついた。
いくら頭で考えてもわからないので質問文を書く。
文章にするからには相手に伝わるよう順序立てて論理的に説明しなければならない。
すると頭の中は自ずと冷静になり、自分の説明文に矛盾があることに気づく。
そこを正して行けば自然と答えが導き出せたのだ。

客観的な角度から見ることでその困難は、雨が降ったとか寒くなったとかいった気候のように事象化されていく。
日記として時系列に取り込むことであらゆる困難は突発的な災いではなく、因果関係を持ったシナリオとして整理されていく。対策はなくともそこには原因があることが分かってくる。
私は死や病や介護も自然現象のように捉えようとしている。