おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(83)病気になるために生まれたんじゃない

先週木曜日の夜、小林麻央さんが旅立った。
生前彼女が病気、あるいは生死に関してどのような考えを持っていたかは、昨年BBCに寄稿した『色どり豊かな人生』に詳しい。
その死生観は、今まさに闘病生活を続ける患者さんやその家族、これから先の人たちに大きな影響を与えることのできる力を持つ。

寄稿には乳癌を宣告されてからブログで公表するまでの心境の変化、闘病を続ける過程で固めた決意が綴られている。
中でも私が感銘を受けたのは次の一文だ。

例えば、私が今死んだら、
人はどう思うでしょうか。
「まだ34歳の若さで、可哀想に」
「小さな子供を残して、可哀想に」
でしょうか??
私は、そんなふうには思われたくありません。
なぜなら、病気になったことが
私の人生を代表する出来事ではないからです。

何だかはっとさせられた。
癌という重い病は辛く受け入れ難いことではあっただろう。
しかし彼女の人生において最も大切にしてきたものは家族だったのだ。
人生における主軸はいつだって闘病ではなく、家族だったのだ。

どんな人でも生まれたからには誰かに、あるいは何かに影響を残して死んでいく。
それは次の世代へ繋ぐ命であったり、作品であったり、言葉であったり。
この世に生を受けた時点で既に世界に影響を与えている。
病気になるために生まれたんじゃない。
存在するために生まれたのだ。

ともすれば最近の私も心のどこかで、母の人生を「認知症になってしまったこと」をメインに据え思い返していたところがあったのかもしれない。
しかしそれも違うのだ。
母の人生を語る上での中心が「認知症」であってなるものか。
そんなものは枝葉に過ぎない。

同時に家族だって介護だけが全てではない。
それ以上に大切にしてきたことがあるはずなのだし、これからもそれがメインであり続けるようにしなければならない。
そしていつか私自身も、死を恐れたり忌避するのではなく、枝葉に過ぎないと思えるようになれたらいい。

(82)介護に役立つツール

ここまで書いてきたように手帳と日記アプリを活用することで私は記憶の補助と心の整理を行っている。
他にも介護にあたっては役立つツールがいくつかあるので挙げてみたい。

一つはスマホのカメラ。
役所の書類は未だに手書きで提出すべきものがほとんどだ。
電子ファイルなら簡単に手元に原本を残せるが、紙の書類はわざわざコピーをとらねばならない。
そんなときカメラで撮っておけば管理も楽だ。
また、相談相手が高齢者だったりするとメールでのやり取りができず、手紙でのコミュニケーションとなることが多い。
この時も手紙を写真に収めておくと後から簡単に読み返せる。
写真が増えてきたらEvernoteに取り込んでタグをつけておけば整理もしやすい。

遠距離で暮らす姉との連絡はLINEが役立っている。
煩雑なタスクはノート機能を使うと後から修正もできる。
最近はWindows版のデスクトップアプリでもノート機能が使えるようになったため、長文の編集はパソコンから行っている。
また、煩雑なタスクはXMindというデスクトップアプリを使い、まずマインドマップで整理してから書き出すと長文も読みやすくまとまる。
本当はスケジュールも共有したくてGoogleカレンダーを提案したのだが、姉はGoogleアカウントを作ることに抵抗があるらしく実現に至ってない。
こう考えるとLINEにカレンダー機能がつけば非常に助かる。

情報収集ツールも活用している。
一つはRSSリーダーであるFeedly
これで「認知症オンライン」などの認知症関連ブログを講読している。
もう一つはGoogleアラート
私はキーワード「認知症」を登録している。
こうすると各種ニュースサイトの見出しに「認知症」が含まれる記事が一日一回、Gmailで配信されてくる。
始める前はせいぜい一日3件くらいかと思っていたが、一日平均10件近くは認知症に関する記事が配信されてくるので、社会的関心の高さが伺える。

(81)思想と表現の違い

前回までで私が日記をつける理由はほぼ書いたのだが、補足でどうしてもこれだけは書いておきたい。

気持ちを吐き出す文章は、個人が特定されない範囲であればプライベートな日記でなくともブログやSNSでもいいのではないかと言う人もいるだろう。
または友人に愚痴を聞いてもらうでもいいのではないかと。
その方が共感も得られるし承認欲求も満たせるかもしれない。
実際それで均衡を保てている人も多いだろう。

ただし、前回私が書いた「誰にも見せることのない日記」と「他者に公開すること」の間には決定的な違いがある。
何かと言うと、自分の中にのみ留める内は「思想」であるが、他者に見せたり話したりした瞬間それは「表現」になるということだ。
近頃ネットで「思想の自由」と「表現の自由」を混同した論調を見かけたのでどうしても書いておきたかった。

両者はそれぞれ守られるべき自由ではあるが、別問題だ。憲法でも明確に区別されている。
表現は多かれ少なかれそれに接した相手に影響を及ぼす。
それにより相手を傷つけるのではないか、あるいは公共の場に発した場合は社会にどのような影響を及ぼすかは、やはり考慮した方がいい。
私もこのブログで多少の愚痴は溢すこともあるが、この点は気をつけている。
頭の中で考えることと、人目に触れる場に公開することは異なる意味合いを持つということは忘れないようにしている。
名誉毀損ヘイトスピーチ、差別発言、犯罪予告は論外として。
すれすれの表現や過激な発言は、基本的に自由だが「読む人、聞く人のことを考えた方がいい」、限度ってものがあるでしょうよというのが私の考えだ。

こう書くと「その限度はどこで線引きするんだ」と言われそうだ。
そのラインはケースごと違うだろうし、時代によっても違う。
10年前までなんの問題なかった表現が、今はちょっとどうなんだろうと首を傾げるのは当然のことだと思う。

念のため書いておくと、法規制を強化すべきという考えではない。そんなことをしなくてもいいようにみんなが総体的に生きやすい社会にしようよと言いたいだけだ。
また清廉潔白でなくてはならないとか、聖人君子になるべきとも、微塵とも思わない。
むしろ社会は人間の弱さ、脆さを前提に成り立つべきだと思っている。
一方で人を憎んだり妬んだりすることのない純朴な人も間違いなく存在するし、その人たちが生きやすい社会こそが本来理想なのだ。

しかし私はそうではないのだし、そうなるには遅すぎる。
俗人であることの自覚を持って、その中で遣り繰りするのだ。
醜い心は心に留め、内側で処理して外には漏らさない。
そのために、誰にも見せない日記を書くのだ。