おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(32)助太刀の到着

斎場に隣接した建物は宿泊施設になっており、「おこもり」と言って通夜の晩はそこで死者と共に夜を明かすことができる。
お斎の間に遺体はストレッチャーに乗せられそのまま宿泊部屋と仕切りのない土間に運ばれていた。
今これを書いていて気づいたのだが、自宅で寝かされていたときだけでなく、斎場もおこもりも、遺体は常に北枕で安置されていた。つまり建物がそのように設計されているということだ。

おこもりの部屋は旅館のように広くて綺麗で、シャワーもテレビも備えられ、こういった宿泊施設があることは何となく知ってはいたが、ここまで快適とは思わなかった。
二・三人の宿泊が可能だったが、その日は私だけが泊まることにした。
イベントを一つ終えたことで気持ちが幾分か軽く、心地よい酔いもあり、度々棺の小窓から父の顔を拝んでは感傷に浸ることもできた。
夜遅く冬空の下を数台の消防車がけたたましいサイレンを鳴らして通り過ぎていった。

翌日は告別式だ。
昼前に妻や娘たちの到着を出迎えるため、おこもりの部屋は交替で留守番をしなければならない。
と言ってもお茶でもしながらテレビを見ていればいいだけなので、母とその妹さんたちが適任だ。
しかし最初の内、母はそれを嫌だと言う。この忙しい中何を言っているのかと不審に思ったが、上手く伝わってないだけかとゆっくり説明し、何とか来てもらうことが出来た。
ところがいざ到着してみると喪服にサンダルを履いている。「ボケたね」なんて笑っていたが、今思えばこれらも症状の一つだったのだ。
ただこの先、相続など雑多な手続きを短時間で片付けながら、日々の家事もこなさねばならない。
その時の母の様子は何とも頼りなく、心配であった。

斎場から駅までは歩いて向かう。
外の空気に触れ暫しの開放感。
電車が到着してまずエスカレーターから降りてくる娘の足が見えた。
幼稚園の園服にリュックを背負い、私の姿を見るなり笑顔で駆け寄ってくる。
続いて義父、義母、そして妻。
その時私は、「妻が来てくれた」という感想よりも「健康で話の通じる若者が来てくれた」と心から感謝した。

(31)お墓の修繕

通夜の後、お斎には親族や父母と深い親交のあった方々についてもらう。
私や姉の会社関係者は遠方からはるばる駆けつけていただいたものの、電車の時間もあるため早々と帰られた。

お斎の席。
私は住職の隣であり、何を話したものかと思ったが、生前の父は歴史愛好家であったこと、戒名も本人が一番知りたかったのではないかと言った話から始めた。

住職もお酒を嗜むため話は弾む。
この町にも歴史がある。神社仏閣の中には出雲大社と縁のあるものもある。
その辺りをアピールすれば地域振興に繋がるのに、惜しい。
住職もおそらくまだ四十代といったところ。私たち三十代を含め、町興しは共通の関心事なのだ。
子どもの頃から慣れ親しんだ愛着のある町が寂れていく様子を目の当たりにした世代。

少し間を置き、住職から我が家のお墓を直した方がよい旨を伝えられる。
江戸時代から続く墓であり、風化が進み、彫られた文字も読めなくなっている。
それ自体は私も知っていたが、特に問題があるとも思わず、苔むす様が味があるとすら思っていた。何より父が何もしないということは、そのままにしておきたいということなのだ。
しかし住職が言うには土台が崩れかかっていて、大きな地震に耐えられない。万が一倒れたら隣接する他の家のお墓を傷めてしまう。首の取れたお地蔵さんも何体かある。こういう機会に修復するのはごく自然のことだから考えてくれないか、ということだった。
そこまで言われては無下にすることも出来ない。
修復には一体幾らくらいかかるものか。全く想像もできなかったが、後で考えることだとその場ではわかりましたと答えたのだった。

(30)淡々と、通夜

夕方、出棺。
近所の方々が家から出てきてお見送りをしてくれる。
お向かいの奥さんから「お父さんの育てたお花を見るのが楽しみだったのよ」と声をかけられ、お礼をする。
私以外の親族は葬儀屋のマイクロバスで斎場へ。
私は一人残って火と戸締まりを確認する。
父の最期となった風呂場では切れかけた蛍光菅が明滅している。

電話で手配したタクシーの運転手は母方の実家に所縁がある方だった。
狭い田舎ではこの程度のことは偶然の内にも入らない。
「お正月でこんなに暖かいのも記憶にないですよ」
地元の人でさえ皆こう口を揃えるのが印象的だった。

タクシーはお寺に到着する。
私は住職を出迎え、法具と呼ぶのか、お経を読む際に用いる用具一式を運び後部座席に積む。
代々我が家とは深い関係にある寺である。こことは数ヶ月後にちょっとしたトラブルが生じるのだが、このときはまだ父が大切にしてきたお寺であり、私も父の顔に泥を塗るようなことがあってはと気を遣っていた。

日もすっかり落ち、お通夜が始まった。
正月にも関わらず多くの方に駆けつけていただき、私は母や姉と共に一人一人と挨拶を交わす。
ただその頃は喪主として勤める挨拶のことで頭がいっぱいだった。

家の歴史と土地を守ることに人生を捧げた父。今は大好きな花に囲まれて安らかに眠っていることと思う。
長い読経の間も頭の中で反復した甲斐もあり、滞りなく挨拶は終えた。
しかし他の家族で、涙ながらに言葉を詰まらせながらやっとのことで喋り切る喪主の挨拶を見たりすると、なんと自分の挨拶の淡白なことよと思ってしまう。