おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(35)開基檀家の誇り

火葬が終わるまでの間は斎場でお斎。
お通夜とは違って娘が場の中心となり賑やかす。
まだ人見知りする年齢でもなく、初対面の誰の前でもマイペースに振る舞うため、場が和み助かった。
参列者は生涯独身者か旦那さんが体調を壊してる方か、先立たれた未亡人ばかりなので、娘からしたら初めて見るお婆ちゃんだらけだったことだろう。

ゆっくりと食事を終え、再びマイクロバスで火葬場へ。
ストレッチャーの上に父の骨を見る。
私と母から順に長箸で拾骨し骨壺に納めていく。
元々大柄ではなかったのでさして気には留めなかったが、叔母に言わせるとその骨の細さに驚いたのだという。
仕事を引退してからも畑いじりや物置の整理に勤しんでいたため、身体は動かしていたはずだが、やはり歳もあるのだろう。
最後に喉仏、正確には背骨の一部なのだそうだが、仏の形に見えるという骨を納め、蓋を閉じる。
骨壺を抱えると、両腕にずっしりと重さが伝わった。

ひとしきりの葬儀を終え、電車で各地へ戻る方、市内のホテルに泊まる方を見送ると辺りはすっかり暗くなっていた。
私には最後にもう一仕事、祠堂詣りが残っている。
昨日今日とお経を読んでいただいたお寺にお布施を包み花やお供えと一緒に納めに行くのだ。

ところがこのお布施がまた問題だった。
私も姉も相場通りで構わないという考えなのだが、父の姉と妹に言わせると、それではいけないのだそうだ。
我が家の先祖はその寺を開いたお坊さんであり、その末裔の家系は「開基檀家」と呼ばれる。
昔は僧侶は妻帯できなかったため、我が家はその寺を開いた僧侶の兄の家系なんだそうだ。
そのことは知っていたし、父も事あるごとに私たち子どもに話して聞かせた。
父にとっても、その兄弟にとっても、開基檀家であることは名誉であり、誇りであるのだ。
この束縛が、その後母の介護に加えてもう一つの悩みの種としてのし掛かることになる。

(34)火葬場への道

棺の蓋が閉められ、釘打ちをする。
これより火葬場に向かいますとの案内に従い、遺族はマイクロバスに、私だけが霊柩車の助手席に乗り込む。
長いクラクションが鳴り響いた。
穏やかな気候は相変わらずだが、やや雲が厚くなってきた。

火葬場までは馴染みの道筋を辿る。
小学生時代の遊び場であったり、高校時代自転車で通学した道であったり。
しかし高校卒業後はすぐに上京したため、すっかり変わってしまった景色に驚くことも多い。
「この道は随分拡がったんですね」
駅の反対側出口の開通に伴い拡張工事された道路を通過時、何となしに呟いた。
「お住まいはどちらなんですか?」
と運転手に尋ねられる。
「生まれはここなんですけど今は埼玉に住んでるんです」
「どおりで。先ほどから随分熱心に外を眺めてらっしゃると思ったんです」

拡張工事の計画が持ち上がった当初、ここまで人口が減ることは予測できなかったのか、予測できたからこそ再開発を進めたのか。複雑な思いがよぎる。

「これから向かう火葬場も、新しくなってから行かれましたか?」
「いえ…あそこも新しくなったんですか」
最後に行ったのは母方の祖母、その前がやはり母方の祖父のとき。
火葬場は祖父のときの印象が強烈に残っている。
亡くなったのが大晦日だったので、火葬の時期も今回とさほど変わらないはずである。
しかし今が暖冬なのか、古い火葬場が特別寒かったのか。
小学生だった私は、従兄弟たちと共にすきま風の入り込む和室の詰所で、震えながらテレビを見て、煎餅をかじり時間を潰したのを覚えている。

今は涙の一つも流さないが、祖父が死んだ日、母は泣いていた。
そう言えば母は五十前後で祖父、つまり実の父親が死ぬまで身近な人の葬儀には出たことがなかったのだそうだ。

車二台がやっとすれ違える狭い坂を登りきり、新しくなった火葬場へと着く。
最期のお経が読まれ、棺は窯の中へ。
火が入り、私たちは一旦斎場へ戻るため火葬場を出た。
いつの間にか、外は視界を遮るほどの豪雨だった。
その雨を境に穏やかな正月は終わり、本格的な北陸の冬が始まった。

(33)家系のつづきを

昼過ぎに告別式が始まる。
読経の間、お焼香の方々と黙礼を交わす。
地元の同級生も来てくれており、その鼻頭を赤くした顔を見て何だか有り難い思いがした。
娘には読経は長過ぎるため途中で退出させる。
そして通夜に引き続き喪主としての挨拶。
「家と歴史を守って欲しい。それが父の唯一の遺言でした」と昨晩おこもりの部屋で考えたことを述べた。

いよいよお別れのとき。
葬儀屋さんが祭壇の花をカットしてくれたのでそれで父の身体周辺を囲んでいく。
棺の底板には納棺の際に私と姉から、感謝の言葉を記している。それと三途の川の渡し賃だという札を納める。
金属は燃えないので眼鏡は入れられなかった。

余談だが最近はゴルフ好きだった故人のための納棺用の木製ゴルフクラブがあるのだそうだ。さらにはゴルフボールの形をした骨壺まである。
宗教が時代と共に変化し、拡大解釈されていく様は興味深いし、そうあるべきだとも思う。

白、ピンク、黄色。
参列者の手により色とりどりの花々で棺が埋められていく。
どこまで分かっているのか、娘は不思議そうな顔つきで棺を覗き込み、しかし花を飾ることに対しては積極的で、父の顔近くに丁寧な手つきで添えていく。

娘が生まれるまで「早く孫の顔が見たい」というのは決まって母の台詞だった。
父は長い闘病で先が永くないことは覚悟していたはずだ。
それに加えて自ら家系図を編纂するほど家系には思い入れが深い。その家系図が途絶えて欲しくないという気持ちは誰よりもあっただろう。
そんな想いを語ったことは一度たりともなかったが、娘が生まれた日、私はまだ目も開いてない赤ん坊の写真を父にメールで送信しながら、「なんとか間に合った」と安堵したものだった。