おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(14)「心配」の域はとっくに出ているのに

父が死に母の異変に気づいた当初、ヘルパーさんも申請中、しかし私たち姉弟は仕事もあるためそれぞれの住む所へ戻らなければならないとなり、母の妹さんに一週間だけ泊まってもらうことにした。
しかしそれも期間限定だ。
母には父のいない新しい生活に一日も早く慣れてもらわねばならない。
私は居間の目立つ場所に注意書を残していった。予定は手帳に書き込むこと、知らない人は家に上げないこと、など数点。前者は数字がすっかり把握できなくなっていたからだし、後者は葬儀に便乗して営業に来る仏壇屋を家に上げた経緯からだ。勿論火の注意も繰り返しした。
いずれも既に何かしら起こした行動に対する「再発防止策」であるのだが、母にはそれが分からない。
泊まりに来た妹さんにその注意書を見せ「子どもがこんなに心配するんだよ。人をボケ老人扱いして」などと笑っている。
私たちは「心配」の域はとっくに出て、「防御」の段階に来ているというのに。

いくら普通の状態じゃないことを説明しようとしても、ちょっとミスした、忘れっぽくなったという程度の認識から抜け出せない。
認知症がもっと一般的に知られ、誰しもがいずれなり得るのだという認識さえあれば、ああついにその時が来たかと我々の助言も受け入れやすくなったのではと思う。
それだけではない。
健康な内に予防にも努めるだろうし、認知症の怖さを知れば昨今話題の免許返納もより進むだろう。
認知症は三大成人病と同じくらい広く知られ、恐れられていい病気だと思うのだ。