おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(45)親不孝

小学校の高学年、私は反抗期にあった。
といっても反抗の対象は親ではなく学校の教師だった。
上手く説明できないが、学校という空間がどこまでも大人中心で回されることが気に喰わなかったのだ。自分たちの存在が希薄に思えて嫌だったのだ。
と書いても何だか嘘臭い。
はっきり言ってしまえば、要は甘えてたんだろう。

熊本地震の後、被災地の子どもが大人に対して暴力を振るったり乱暴な言葉を使う現象が見られたという。
これは大人たちがどこまで許容するかを見る「試し行動」というのだそうだ。
この記事を読んだとき、私の小学生時代はまさしくこれだと思った。
口ではいつまでも子ども扱いするななどと言いながら、子どもだからと許される、甘んじられる範囲を試していたんだろう。
高学年にもなって、被災者でも何でもない、ただの甘えん坊がたくさんの教師に迷惑をかけた。

大人だって弱くて脆い。
それを知らずに、何をやってもどうせ大人は変わらないと調子に乗っていた。
だが授業を真面目に受けなかったり乱暴な言葉を吐いて許されるのは大人が、あるいは教師が強かったからじゃない。子どもに背中を見せないように、ある人は上手くあしらい、ある人は心の底で我慢してたのだ。

それは母も同じだった。
学校からの報告を受けてもなお、私には変わらず接し、いつも通り晩御飯を作ってくれた。
私の試し行動は空振りに終わったのだ。
どんなに反抗しても暖簾に腕押しで、終いにはバカらしくなってやめてしまった。

その陰で、母は10キロも痩せるほど悩んでいた。
大人になって冷静に考えてみればもっともな話だ。なのに私は今の今まで両親の苦悩を考えないように、その時のことを記憶の片隅に追いやっていた。
同時期に父はインターフェロンによる治療の最中だったはずだ。
母は知り合いの教職の方に相談するなどしていたという。

「もっと知ってるけど話す?」
と姉は微かに笑う。
「ううん、今はやめとく」
ごめん、流石にこたえた。
これ以上の己の過去の悪行と向き合うには、今は心の整理が追いつかない。

(44)みんな、心にストレスを抱えている

母は父の死を受け入れられず、今が特別不安定な精神状態なのかもしれない。
それにしてもこのまま独りにさせるわけにはいかない。
気持ちが落ち着くまでは母の妹さんに一緒に泊まり込んでもらうようお願いしてみようか。
夜の十時を過ぎた頃、私は姉と今日あったことの情報交換と、明日以降の相談を重ねた。

「わたしも今日は眠れそうにない。睡眠薬飲むよ」と姉。
姉も一時期精神が不安定になり、睡眠導入剤に頼っていた時期があったのだという。暫く必要なかったのだが、一応御守り代わりに持ち歩いていた。今晩は何年か振りに必要だ、と言う。
「叔母さんもあんなに元気に見えるけど、兄ちゃん死んでから顔面神経痛があるんだって。右のほっぺがいつもこわばってるの気づいた?」
私たちが「兄ちゃん」と呼ぶのは叔母さんの息子さんのことで、私たちの従兄弟だ。
数年前にやはり精神を病み、アルコール中毒など色々なことがあった末に40代で命を落とした。
「そうか、叔母さんにも頼りっきりってわけにはいかないね」

程度の差異はあれど、一見健康に見えても、心に何かしらの問題を抱えている人は多い。
私もこれまで薬にこそ頼ることはなかったものの、人間関係で塞ぎ込み、息を止めるようにただその辛い日々が過ぎ去るのを待ったことがある。
ストレスを抱え込まない人などいない。

「でも母さんが鬱病ってのは今でも考えられないよ」
私の言葉に姉はしばらく考え込み、こう返した。
「あんたが小学生のとき、母さん10キロも痩せたんだよ」

(43)テレビの音量が最大レベルに近い

もう寝るから、と寝室に上がった母。
しばらくしてそこからテレビの音が聞こえてくる。
しかも階下まで響くような大音量だ。

心配になり私は階段を上る。
「入るよ」「うん」
襖を開けると母は布団に横たわりバラエティ番組を見ている。
「ちょっとテレビの音大きいんじゃない?」「そう?」
といってボリュームを下げる様子もない。
横にはまだ父の布団が並べて敷かれたままだった。
私はリモコンを手に取りボリュームを下げる。それは最大レベルに近かった。
「これくらいだと聴こえない?」「聴こえる」「そう。あんな大きいと近所迷惑だよ」「わかった」

さっきまであんなに饒舌に話していた母が、また昼間のように戻ってしまった。
打っても響かないというか、普通だったらこのような会話の中で「何故音量が大きかったのか」を説明する場面だ。
実際、母は耳は遠くないので恐らく寂しさを紛らすためだったのだと思う。
母の性格からして私にそんなことは言わないかもしれないが、せめて「聴こえづらかった」とか「間違えて大きくしすぎた」とか取り繕ってもよさそうなところだが、それもしない。

朝の蝋燭の火の件もそうだが、自分にとって都合の悪いこと、触れてほしくないことは受け流すのだ。
何も問題はない、と言わんばかりに。
また関心事が欲求の対象(今でいえばテレビ)にしかないため、近所の人がどう思うかとか、音を下げるように言った私の気持ちを汲もうとはしない。

「おやすみ」と私が部屋を出ていきしばらくして、再び大音量が戻ってきた。