おぼろ豆腐

認知症と少子高齢化について考えた記録

(80)気持ちに折り合いをつける

自分の頭の中だけは誰にも侵害されることのない、際限なく自由な領域だ。
上手くいかないことばかりの毎日で、今の自分ではどう抗っても解決できない難問の前で、ただそこだけは最後の砦だと思っている。
「どうしてこんな辛い思いをしなければならないんだ」
そんな理不尽にぶち当たったら、けして誰にも見せることのない日記に全て吐き出せばいいのだと気がついた。

私は頭の中を開放することで心が楽になると考える。
心理学のことなどまるでわからないが、きっとそんな療法もあるのではないだろうか。
逆に頭の中でまで自分を偽り常識や道徳心に縛られているとそれがストレスとなり心を蝕むのではないかという気がしている。

全て吐き出し、時には激しい言葉も書いたりして鬱憤を晴らすことで思いは昇華され、気持ちをイーブンに持ち込むことができる。折り合いがつけられる。
制約だらけの現実世界で、せめて思考くらいは果てしなく自由でありたい。
どんなに吐き出したところで誰に迷惑をかけるわけでもないので、目を背けたくなるような現実も直視できる。
困難から逃げるのではなく、いっそ取り込んでしまえばいいのだ。
思いが言葉になるとき、黒くて凝り固まったわだかまりが解れていく。
これは記憶を整理するために夢を見るという言説に似ている。
夢の中はとても他人には見せられないように、私の日記はたとえ妻であっても見せることは憚れるほど自由に書いている。

そして辛い出来事も活字に起こすことでどこかしら客観的に見えてくる。
これは「書こうと思った時の自分」とそれを「読み返した時の自分」に時差があるからだ。
私はこれを仕事で問い合わせのメールを書いていて気がついた。
いくら頭で考えてもわからないので質問文を書く。
文章にするからには相手に伝わるよう順序立てて論理的に説明しなければならない。
すると頭の中は自ずと冷静になり、自分の説明文に矛盾があることに気づく。
そこを正して行けば自然と答えが導き出せたのだ。

客観的な角度から見ることでその困難は、雨が降ったとか寒くなったとかいった気候のように事象化されていく。
日記として時系列に取り込むことであらゆる困難は突発的な災いではなく、因果関係を持ったシナリオとして整理されていく。対策はなくともそこには原因があることが分かってくる。
私は死や病や介護も自然現象のように捉えようとしている。